松本城天守群 |
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別名 |
深志城、烏城 |
所在地 |
〒390 長野県松本市丸の内4-1 |
種類 |
平城 |
築城者 |
石川数正・康長 |
築城年 |
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遺構 |
天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓(以上国宝) |
初訪問 |
2000年 |
備考 |
松本城は戦国時代末期、石川数正によって築かれた。本丸、二の丸、三の丸、そして武家屋敷用地を含めた城全体の面積は39.1万平方メートルにも及んだ。 城主は石川氏を初めに小笠原氏、戸田氏、松平氏、堀田氏、水野氏など、6万石から8万石程度の大名だった。1700年代初期には幕府領になっていたこともある。 明治になってから天守は他の建造物と共に取り壊される予定だったが、北深志横田町の戸長市川量造の募金活動によって買い戻され、取り壊しを免れた。 その後、松本中学校校長小林有也が当時の松本町長小里頼永と共に「松本城天守閣保存会」を1901年に発足させ、保存に奔走したお陰で、天守は現在にまで至っている。 |
感想 |
天守群を最初見て思ったのが、「でかい!」だった。実際には姫路城大天守より小さいが、周りに何もないので、大きく感じたのだ。残念なのは、松本城跡には天守群以外、これといった建築が残っていないこと。明治維新後に取り壊されたものもあるが、元々櫓などの建築は少なかったらしい。築城者は天守に集中的に金をかけたようである。 天守に上がるのは大変だった。人が馬鹿みたいに多く、入り口から最上階までずっと列になっていたのだ。同じく国宝で、しかも世界文化遺産に登録されている姫路城でさえここまで混んでいなかった。 尚、松本城の側に洋風建築で有名な旧開智学校がある。学生らが建物の周辺で写生していたのが印象的だった。 松本城は、二の丸までは無料では入れる。本丸に入るには入場料を支払う必要がある。自分が行った時は520円だった。 旧開智学校も有料。敷地の入り口で支払う。310円だった。 追記: 2005/05に再訪。入城料は600円になっていた。 |
復元された黒門 |
土塁 |
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別名 |
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所在地 |
長野県松本市蟻ヶ崎城山公園 |
種類 |
中性山城 |
築城者 |
犬甘氏 |
築城年 |
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遺構 |
主郭、空掘 |
初訪問 |
2000年 |
備考 |
松本城から西に1000メートル離れた場所に城山公園がある。鎌倉時代から戦国時代まで、豪族犬甘氏の持城犬甘城があった場所だった。江戸時代になってから市民に開放され、その名残で現在も公園になっているという。遺構として主郭や空堀がある。 |
感想 |
松本城を訪ねたついでに行ってみた。松本城から西に1000メートルくらいだから徒歩で行ける、と甘く考えていた。が、考えてみると「城山」となっている以上、山にある。坂道を延々と登らなければならなかった。一帯は木々の多い公園となっている。ここを訪問した後、南下して井川城にも行った。無論、徒歩で。足が棒になった。 市民公園なので、入場は無料。 井川城は田んぼのど真ん中にあり、そこも無料。ただ、小道から外れると田んぼに落ちるので注意が必要。 追記: 2005/05に再訪。相変わらず公園としては整備されているが、何の城跡なのかは公園内を歩き回っても分からない。 |
本丸石垣と濠 |
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別名 |
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所在地 |
福井県福井市大手町1丁目 |
種類 |
平城 |
築城者 |
結城秀康 |
築城年 |
1601年 |
遺構 |
本丸、石塁、濠、天守台 |
初訪問 |
1997年 |
備考 |
福井城は徳川家康の次男結城秀康によって築かれた。1601年のことである。この地に城が築かれたのは、柴田勝家の北庄城とその城下町が残っていて、全く新たな城を築くより安上がりだったからだという。 しかし、秀康は城の完成を見ないまま24歳で死去。嫡男忠直が継いだ。しかし、大坂夏の陣で大活躍したのにも拘わらずそれに見合う褒美が得られなかったという不満から忠直は暴君と化し、領地を奪われ、忠直の実弟忠昌が入城した。この時点で北庄城(敗北の「北」は縁起が悪い)は福居に改められ、後に現在の福井に改められる。 福が居るので福居と改名されたのだろうが、名前負けしたとしか言えない。城下町完成の直前に二度の火事に見舞われ、天守は焼失。親藩とあって、幕府は修理の為に多額の金を貸したが天守は許可しなかった。 |
感想 |
福井城は、福井駅から200メートルも離れていない。駅前から東西に延びる大通りを真っ直ぐ行き、次の交差点で右に曲がって北上すればいい。 現在残っているのは本丸とそれを囲む濠だけ。その本丸跡も県庁庁舎の敷地となってしまい、城跡として整備されているとは言い難い。 石垣はほぼ完全に残っているのに、城地から近代的で、面白味の欠片もない庁舎がそびえ立っているのは残念だった。 側に柴田勝家の居城だった北庄城跡がある。 福井城本丸は県庁の敷地でもあるので、本丸に入るのは無料。 |
現存天守 |
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別名 |
霞ヶ城 |
所在地 |
〒910-02 福井県坂井郡丸岡町霞町1丁目59番地 |
種類 |
平山城 |
築乗車 |
柴田勝豊 |
築城年 |
1575年 |
遺構 |
本丸、現存天守 |
初訪問 |
1997年 |
備考 |
丸岡城は柴田勝家の甥の柴田勝豊によって築かれた城である。二層三階の天守は、現存天守の中では最古のものだとされている。 丸岡城は北庄城の支城として柴田勝家を支えたが、柴田勝家が秀吉との跡継ぎ争いで敗れると城主は次々と変わり、明治を迎えた。 天守は一時国宝に指定されたが、昭和23年の福井地震で倒壊した。が、廃材を利用して復元された後、重要文化財に指定され、現在にまで至っている。 |
感想 |
福井駅からだと市営バスを使って1時間近くかけて行くしかなく、交通の便がとにかく悪かったことを覚えている。城の周りも特に整備されておらず、住宅街になっていて、城がまるで目立たない。 城内も天守以外は何も残っておらず、城跡、という雰囲気が薄い。日本最古とされる天守も、公園の隅に建てられた一設備のような扱い。 天守の最大の特徴は、石瓦を使っていること。近くで見ると表面がザラザラと粗い。その意味では面白い天守である。 本丸に入るには入場料を支払う必要がある。自分が行った時は300円だった。これは側にある資料館との共通券にもなる。 英語版はこちら。 |
復興天守 |
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別名 |
稲葉山城 |
所在地 |
〒500 岐阜県岐阜市金華山天守閣18 |
種類 |
山城 |
築城者 |
二階堂行政 |
築城年 |
1201年 |
遺構 |
復興天守3層4階 |
初訪問 |
1996年 |
備考 |
岐阜という名は、織田信長が稲葉山城に入城した際命名した。信長は、のちの豊臣秀吉が築いた墨俣城を前進基地として斎藤道三を倒し、敵の本拠地だった稲葉山城を自分の本拠地としたのだ。 織田信長は安土城に移った後、子の信忠に委ねた。本能寺の変後、信長の三男信孝が入ったが、跡継ぎ争いに敗れて没落すると、池田氏の城となった。1592年、信長の孫秀信が入ったが、関ヶ原で西軍に味方してしまった為、城を追われた。信長が築いた名城も、加納城の築城の際取り壊され、廃城となった。 現在の天守は維新後二度目の復興である。最初の天守は明治時代の博覧会の為に建てられたが、あまりにも雑で評判が悪く、取り壊されてしまった。現模造天守は1956年に完成したものである。 |
感想 |
岐阜で一泊し、その翌日の朝に岐阜城を訪ねたのだが……。宿泊していたホテル(駅の近く)から岐阜城のある岐阜公園まで2キロ近くあった。バスを使おうとしたが、なぜかバスがバス停で止まらず通過してしまうので、結局歩く羽目になった。 岐阜城がある稲葉山は標高329メートル。ロープウェイで上がれる(往復で900円)。あまり安くなかった、という覚えがある。また、天守に入るには更に金を出さなければならない(ロープウェイとのセットもある)。 岐阜公園からバスが通っているが、岐阜駅には行かない為、途中で降りて歩いた。 歴史的には重要な城だが、色々な意味で散々な目に遭ったこともあり、わざわざ行きたくない城になってしまった。 |
大垣城 |
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復興天守 |
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別名 |
巨鹿城 |
所在地 |
〒503 岐阜県大垣市郭町2-52 |
種類 |
平城 |
築城者 |
宮川安定 |
築城年 |
1588年 |
遺構 |
本丸、石垣、復興天守4層4階 |
初訪問 |
1996年 |
備考 |
大垣城は1600年、石田三成が指揮する西軍の本拠となった。三成はここで篭城して徳川軍を迎え撃つつもりだった。が、野戦が得意で、攻城戦が苦手の家康は、大垣城を素通りしてそのまま大坂へ向かう素振りを見せた。そうはさせないと三成は出陣し、関ヶ原で東軍を迎え撃った。 東軍勝利後、大垣城主は次々替わったが、1635年に戸田氏が入城し、明治維新まで11代続いた。 江戸時代、大垣城は何重もの濠を巡らした、規模の大きい城郭だった。が、現在は清洲城と同様、市街地に囲まれてしまっている。濠も全て埋め立てられている為、城の区間と町の区間を分ける境界線がない。石垣の直ぐ横が道路だ。城跡というより、城を模った郷土博物館と化している。戦災に遭うまで天守が残っていたことを考えると寂しい。 |
感想 |
全国でも珍しい4層天守。四は読み方が「死」と同じなので、極力避けられていた筈なのだ。 訪問した時は資料館となっている復興天守が閉館だったこともあり、さっと見てその場を後にしてしまった。 本丸には無料では入れるが、天守は有料。 |
復元された巽櫓 |
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別名 |
府中城、静岡城 |
所在地 |
静岡県静岡市追手町・城内町 |
種類 |
平城 |
築城者 |
今川氏親、徳川家康 |
築城年 |
1586年 |
遺構 |
石類、濠、復元櫓、復元門 |
初訪問 |
1992年 |
備考 |
元は今川氏の居城だったが、征夷大将軍を辞した徳川家康が隠居城として入城。大改修された。 天守は二度建設されている。最初のは七層の超特大天守となる筈だったが、完成間際に火災で焼失。その結果一回り小さな(それでも五層)が建設される羽目になった。そんなこともあり、五層天守は天守曲輪のど真ん中の平屋建て、という奇妙な作りになっている。 |
感想 |
徳川家康が隠居の城としたくらいだから、歴史的には重要な城の筈だが、遺構は感嘆するほど少なく、幕府との関わりが深かった城とは思えない。 濠は三重に設けられていたが、本丸と二の丸の間にある濠は埋め立てられて一つの曲輪になっている。初めて行った時、三の丸から入ったらいきなり本丸にいたのでびっくりした覚えがある。 この頃は隣町の清水市にいた(後に清水市と静岡市は合併して静岡市となった)。自転車で45分かけて行った。途中、自転車ごと転倒して肘を強く打ち、一ヶ月ほど腕をまるで動かせなかったのが一番の思い出。 入城は無料。 追記: 2004年。12年振りに再訪。濠の一部が発掘されているなど、色々変化があった。ただ、高層ビルの県庁がでんと立っていて、それが邪魔……。 |
濠と巽櫓 本丸を囲む濠。完全に埋め立てられていたが、一部が発掘された |
久能城 |
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別名 |
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所在地 |
静岡県静岡市根小屋 |
種類 |
山城 |
築城者 |
武田信玄 |
築城年 |
1568年 |
遺構 |
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初訪問 |
1992年 |
備考 |
今川氏滅亡後、武田信玄が駿河を占領した。久能山に目を付け、城を築くことを思い付いた。1568年のことである。1582年3月、武田氏滅亡後、徳川家康の領地となり、異父弟の松平勝俊が城主となった。家康が関東に移された後、豊臣方の中村一氏が城主となった。 関ヶ原合戦後、榊原清政、そしてその子の照久が城主となった。 家康の死後、東照宮に改築され、現在に至っている。徹底的に改築されてしまった為、現在は豪華な神社として人々に知られ、城があったのを知る人はあまりいないようだ。 |
感想 |
城跡として整備されていないので、城マニアとしては見所は少ない。ただ、質素倹約を重んじた家康にはそぐわない建物だな、と感じたことは覚えている。 |
復元天守 |
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別名 |
蓬左城(ホウサ)、楊柳城(ヨウリョウ、ヤナギ)、亀尾城、鶴が城、金城、金隣城(キンリン)、金鯱城 |
所在地 |
〒460 愛知県名古屋市中区本丸1-1 |
種類 |
平城 |
築城者 |
徳川家康 |
築城年 |
1612年 |
遺構 |
本丸、二の丸、石塁、現存櫓二、門、外観復元天守五層七階 |
初訪問 |
1996年 |
備考 |
名古屋城は、豊臣氏の大坂城を包囲する為に築かれた城の一つである。加藤清正、福島政則、前田利光などの大大名に普請を命じ、1614年に本丸御殿、天守などが完成した。家康はこれらが完成してから冬の陣を開始したことから、名古屋城を重視していたことが分かる。 小天守は二つになる予定だったが、その前に豊臣氏が滅びたので、名古屋城の戦略的な重要性はなくなり、小天守は一つだけになった。 秀忠大坂城や、江戸城など、幕府の巨大天守が焼失した後も名古屋城は残った。 明治維新後、二の丸の建物は破壊されてしまったが、本丸はほぼ完全に残された。しかし、空襲で天守、御殿などが失われてしまった。これは惜しい、では片付けられないほどの損失である。 |
感想 |
「尾張名古屋は城で持つ!」とか言われている名古屋城だが、特に優遇されている印象は受けない。名古屋駅から一応地下鉄で行けるようにはなっているが、順路を事前に調べておかないと行き難い。 現存の櫓を見て思うのが、どれも他の城の大天守に匹敵するほどの大きさだ、ということ。やはり普請だと立派なものを建てられるらしい。 天守は高さ50メートルもあるが、ビルが周辺で乱立している為、ちょっと離れると天守の姿は見えなくなってしまう。名城名古屋の城下町も、他の城下町と同様、ただの都市で、特別な雰囲気は感じない。 天守には雨樋が見られる。これは再建天守だけでなく、元の天守にもあった。名古屋城天守は他の五層天守と比べて層と層の間が広く、雨水がそのまま下の屋根に落ちると瓦が破損してしまうので、取り付けた。名古屋城天守より更に大きかった江戸城天守や徳川大坂城天守にも雨樋があったと考えても良さそうだ。 名古屋城は城全域が有料で、金を払わないと本丸どころか二の丸にも入れない。しかも料金は500円。高過ぎ。姫路城のように現存天守があるならともかく、鉄筋コンクリートの復元天守なのだから、少なくとも本丸までは無料で入れるようにすべきである。 英語版はこちら。 |
復元天守、北西櫓、南西櫓 南東櫓、大手門、濠と天守 |
復興天守 |
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別名 |
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所在地 |
〒452 愛知県西春日井郡清洲町大字朝日城屋敷1-1 |
種類 |
平白 |
築城者 |
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築城年 |
1478年頃 |
遺構 |
復興天守3層4階 |
初訪問 |
1996年 |
備考 |
清洲城は1478年頃に築城された。織田家の中心的な城となり、1555年には織田信長が那古野城から入城している。桶狭間で今川氏と闘う際は、清洲城から出陣した。 本能寺の変の後、信長の次男信雄が清洲城主となった。1586年大改築され、大城郭に生まれ変わる(つまり信長時代の清洲城は小規模なものだった)。 1610年、徳川家康は尾張国の中心を旧那古野城付近に移した。これが現在の名古屋城である。人口6万の城下町も城と共に移り、清洲は急速に寂れた。 |
感想 |
復興天守は、広島から名古屋へ新幹線で向かう際、見られた。「ここで下ろしてくれ!」と思ったほど。名古屋駅から清洲駅へ普通電車で向かう際も見られた。 清洲城跡は清洲駅から少々離れているが、自分が行った時は道順が途中で示されていて、比較的行き易かった。 復興天守は大抵鉄筋コンクリートだが、清洲城天守は木造だった。今思えば何でもないが、コンクリート天守ばかり見ていた当時は大いに感激した。 本丸は無料で入れるが、天守に入るには金を払わなければならない。自分が行った時は300円だった。 |
現存天守 |
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別名 |
白帝城 |
所在地 |
〒484 愛知県犬山市大字犬山字北古券65-2 |
種類 |
平山城 |
築城者 |
織田信康 |
築城年 |
1537年 |
遺構 |
本丸、現存天守3層4階(国宝) |
初訪問 |
1996年 |
備考 |
犬山城天守は現存天守の中で最古と言われていて、国宝に指定されている。 現在は木曽川から望める絶妙の城として知られているが、歴史は血に塗れたもので、幾度も落城しては所有者が替わっている。 元は織田家が所有していた。織田家内の争いが起こった際、信長に攻め落とされている。 1618年、成瀬氏が入城し、明治維新まで続いた。廃藩後、城は明治政府のものとなったが、震災で破損した際、城を修理するという条件で旧城主の成瀬氏の手に戻り、以後保存されている。日本では唯一の個人所有の城である。 他の城もこうなっていればもっと多く残っただろうにと考えると、残念だ。 追記: 2003年末、成瀬氏は相続税対策の為所有権放棄に合意し、「日本唯一の個人所有の城」ではなくなってしまった。観光客はこれまで通りに利用できるので問題はないが、「個人所有の城」というロマンがなくなり、魅力が幾分薄れた感じがする。 |
感想 |
電車で犬山城に行くなら、名鉄犬山駅で下りるより、一つ隣の名鉄犬山遊園駅で下りた方がいい。 城内には天守以外これといった建築は残っていない。木曽川に下りると天守がよく望めるので、城内に入るより、外から眺めた方が楽しめるかも。 入場料は、自分が行った時は400円だった。本丸の入り口で払う。 英語版はこちら。 追記: 2005/05に再訪したら、入城料は500円になっていた。 |
現存天守 |
寺院敷地となった城跡 |
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別名 |
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所在地 |
愛知県名古屋市橘2丁目東本願寺東別院 |
種類 |
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築城者 |
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築城年 |
織田信秀 |
遺構 |
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初訪問 |
2000年 |
備考 |
古渡城は織田信長の父にあたる信秀が築城した。それまでの那古野城を信長に譲り、移った。二重の堀を持つ構えで、かなりの規模だったが、信秀が末森城、信長が清洲城に移動した時点で廃城となった。 |
感想 |
現在は本願寺東別院の敷地となっていて、隅に古渡城跡を示す石碑があった。それ以外は城があったことを示すものは何もない。 敷地への入場は無料。 |
児童公園となっている知立城跡 |
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別名 |
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所在地 |
愛知県知立市西町西 |
種類 |
平城 |
築城者 |
永見氏 |
築城年 |
織田信秀 |
遺構 |
碑、説明板 |
初訪問 |
2009年 |
備考 |
知立城は、知立神社の神主だった永見氏の居館だった。 13代神主貞春は、保元・平治の乱に朝廷側(北面の武士)として出陣している。29代神主貞英の時、桶狭間の戦いがあった。今川方に属していた為、知立城は織田勢に攻められ、落城。 その後、天正年間に刈谷城主水野忠重によって御殿が建てられ、寛永年間に松平氏が増築をしたが、元禄12年(1699)地震により倒壊。再建されることはなかった。 永見氏は桶狭間の戦いの最中に滅亡したのか、と思いきや、そうではなく、上述の29代神主貞英貞英は水野忠政の娘を妻とし、於万の方という女子をもうけている。 於万の方は徳川家康の正室築山殿に仕えることになるが、天正元年(1573年)に家康の側室となり、翌2年には男子を出生。 この男子こそ後の結城秀康である。 於万の方は長勝院を名乗ることになる。 |
感想 |
知立駅から徒歩5分程度の距離にある。 現在は児童公園となっていて、遺構は何も残っていない。説明版で、辛うじてここが城跡であった事が分かる。 知立城は平城。平城というと、時代的に新しいものと思われがちだが、戦国時代の最中にも平城は築かれていた。当然ながら攻められ易いので、周辺の山城と連携していたと思われる。 |