二の丸石垣。仁風閣。山上の丸石垣 |
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別名 |
久松山城 |
所在地 |
鳥取県鳥取市東町 |
種類 |
山城 |
築城者 |
山名誠通 |
築城年 |
1545年 |
遺構 |
本丸、二の丸、石塁、濠、天守台、門 |
初訪問 |
1996年(2005年1月、2013年12月再訪) |
備考 |
鳥取城祉は標高264メートルの久松山にある。 1545年、山名氏の居城、天神山城の出城として築かれ、武田氏が城を預かった。1563年、武田高信は山名氏に反旗を翻し、破った。 が、高信は毛利氏と手を結んだ為、毛利対尼子、毛利対織田の対立に引きずり込まれ、最前線で戦うことを余儀なくされた。 1569年、高信は山名豊国に鳥取城を攻められ、城を奪われてしまった。 ようやく山名家の手に戻った鳥取城だが、それも長くなく、1580年、羽柴秀吉による兵糧攻めにあう。この戦で豊国は城を捨て、秀吉側につく。 関ヶ原の後、池田長吉が入城し、城を大改修する。 かっては山頂に山上の丸、山下に天球丸、二の丸、三の丸があったが、山頂の天守閣は1692年に落雷で焼失。山下に御三層櫓を再建するだけにした。 明治まで幾度も焼失と再建を繰り返したが、1879年に陸軍省によって、残った建造物は解体されてしまった。 現在は三の丸には高校や、仁風閣(ジンプウカク)という、皇太子(後の大正天皇)が宿泊した洋館が建ち、城らしいものが見たければ更に石段を上がらなければならない。 そこでも石垣を残すだけである。 |
感想 |
広島から鳥取まで距離的には遠くないが、いざ電車で行くとなると大変。本数は少ないは、途中で10分以上停止するは、て全く進まず、イライラした。 鳥取城は、鳥取駅から1500メートルほど離れている。県庁の側なのでバスが通っている筈だが、時間割が分からず、利用できなかった。 訪問した時は早朝だった為まだ暗く、撮った写真の大半は真っ黒だった。 「早起きは三文の徳」というのが嘘であるのを実感させた城。 入場は無料。 追記: 2005年1月に鳥取城を再び訪れることに。 朝に行ったのだが、この日は雨が降るのか降らないのかよく分からない天気。散々悩んだ後行ってみたら、天気はどうにか持ってくれた。 これなら山頂の山上の丸に行ってみるかと思い、登ってみた。 前日米子城のある湊山を登っていたが、こちらの方が明らかに高い。登山道に「〇合目」を示す標識が立てられていたほど。 途中、ヒョウが降ってきたので、「ちょっとまずいかも……」と悪い予感がした。が、半分以上登っていたので下りる訳にもいかず、山頂まで登ったら、雨がしっかりと降っていた。 山頂の屋根付き休憩所で雨がやむのを待っていたが、その気配がなかったので、カメラ(ニコンD100)で写真を適当に撮りながら下山。 最初に来た時は暗くて写真が殆ど撮れず、今回は雨。 鳥取城には呪われている感じ。 1996年に行った時はバスが利用し難くて結局使用できなかったが(城から駅まで徒歩で行き来した)、この時は行きも帰りも利用できた。自分がバスの利用に慣れてきたのか、バス会社が体制を改めて使用し易くしたのかは不明。 鳥取城は石垣の整備が進められていて、あちこちが工事中だった。 追記: 2013年12月に再訪。 雪化粧を被っていた。 現在は整備工事がなされているらしい。 山頂まで登るべきか迷った末に、上る事に。 雪の斜面を30分近くかけて登ると、雪が本格的に降っていた。 鳥取城にはとにかく呪われている感じ。 翌日は晴天だった。 |
2005年 鳥取城の石段と石垣 2013年 水濠と三の丸石垣。二の丸石垣 二の丸石垣。仁風閣の螺旋階段。久松山 中仕切門(復元)。雪に覆われた水濠と三の丸石垣。二の丸石垣 水濠と三の丸石垣 仁風閣。二の丸石垣 天球丸近くにある神社(登山口も兼ねる)。山上の丸石垣 山上の丸石垣。山上の丸から望む鳥取市 仁風閣内部 仁風閣内部 久松山。仁風閣 中仕切門(復元)。仁風閣 二の丸石垣 久松山と仁風閣。三の丸石垣と水濠 雪原と化した鳥取砂丘(城の写真ではない) |
内膳丸から望む山頂。本丸石垣 |
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別名 |
久米城 |
所在地 |
鳥取県米子市久米町 |
種類 |
平山城 |
築城者 |
吉川広家 |
築城年 |
年 |
遺構 |
本丸、石塁 |
初訪問 |
2005年(2010年10月再訪) |
備考 |
米子城は、吉川広家によって湊山に築かれた城である。 山頂にある本丸や、麓にある内膳丸から成り立っている。 広家は関が原の戦で西軍についたことから、岩国に封じられ、代わりに中村一忠が入ったが、一忠は20歳で急死し、子がなかった為断絶。 その後池田氏、荒尾氏が入城し、明治にいたる。 維新後、個人に売却され、解体された。 |
感想 |
米子城を初めて訪ねたのは2005年だが、米子に立ち寄ったのは2度目。1996年にも立ち寄っている。1996年の時も城に行こうとしたが、正確な場所が分からず、結局行けなかった。 2005年の時は地図をきちんと入手するなどして準備していたので、比較的簡単に行けた。 米子城は、100メートルほどの高さの湊山にある。 麓から見た時は「これは物凄い山登りになるかも」と恐れていたが、実際登ってみると案外すんなりと頂上まで登れた(翌日登った鳥取城の方が高かった)。 石垣以外は特に何も残っていないのは知っていたので、あまり期待していなかった。が、残っている石垣の状態は良く、その石垣も器用に構築され、見所が多い城だった。 維新の時点で残っていた建築物が解体されなかったら……、と悔やむ。 追記: 2010/10に再訪問。 |
本丸石垣 米子城(2005) |
松江城天守2010/10、2013/07 |
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別名 |
千鳥城 |
所在地 |
〒690 島根県松江市殿町1-5 |
種類 |
平山城 |
築城者 |
堀尾吉晴 |
築城年 |
1611年 |
遺構 |
本丸、二の丸、石塁、濠、現存天守五層六階(重要文化財)、復元櫓 |
初訪問 |
1995年 |
備考 |
松江城は、23万石の大名堀尾吉晴が、1611年から5五年の歳月をかけて築いた。3代目に絶え、京極忠高24万石が入城。しかし、たった4年で死んだ。子がない為断絶となった。その後、家康の孫松平直政18万石が入城した。直政は、結城秀康の3男で、14歳の時、大坂冬の陣で真田丸を攻撃し、初陣を建てた人物である。松平氏の治政が10代続いて明治を迎えた。 城の殆どは史跡に指定され、保存されている。しかし、三の丸は濠の一部が埋め立てられ、県庁が建てられている。城内の建築物は全て壊されたが、天守だけは残された。 天守の鯱は木製で、2.08メートルもある。木製としては、現存天守の中で最大である。 松江城は、人柱の話で有名だ。 築城には困難が多かった。堀尾吉晴は、自ら作業員を激励し、志気を高めた。吉晴夫人も餅を焼き、握り飯を作って振る舞った。 二の丸では盆踊りも行われた。人柱に使う為の女性を捜す為だった。その結果、お松という娘が選ばれた。奥女中にしてやると騙して城に招き、人柱にしてしまったのだ。 城は無事に完成した。吉晴は領民の入城を許可し、完成祝いが始まった。 満月が雲に隠れると、風が吹き始め、篝火が消えてしまった。天守の周りを人魂が飛び回ると、天守は大きく揺らいだ。 これを見た領民はお松の祟りだと言って逃げ帰ってしまった。 吉晴は急死した。跡継ぎにも早死が相次ぎ、堀尾家は断絶した。その後、京橋忠高が入城したが、彼も急死し、京橋家は断絶となった。 1638年、松平直政が入城した。天守を上がると、娘の幽霊が現れた。何者かとの問いに、お松はこの城は自分の城で、去らないと家を断絶させると脅した。 直政はコノシロが欲しければ、湖から取らせてお前にやると言うと、お松の姿は消えた。直政は「この城」を魚のコノシロとすり替えたのだ。 直政は一つの櫓をコノシロ櫓と改名し、お松の霊を祭った。その後城で異変は起こらず、松平氏は明治を迎えた。 |
感想 |
広島と松江は一応線路で結ばれているが、特急列車はないので、事実上バスでしか行けない。 松江城は松江駅からかなり離れているので、電車で来たならバスを利用した方がいい。 二の丸までは無料だが、本丸に入るには入場料を支払わなければならない。自分が行った時は400円だった。 城の東部には古い町並みが残っているので、ついでに観に行くのもいい。 天守は5階だが、何層なのかは書物によって分かれる。5層天守と記すのもあれば、3層天守、もしくは4層天守と記すのもある。 天守は高さ30メートル。現存天守の中では姫路城と松本城に続いて3番目。床面積では姫路城に続いて2番目である。 追記: 2005年1月にまた訪れた。以前行った時は高速バスが城の側にある県庁前の停留所で停車したので、そこで下りたが、この時は高速バスは松江駅を発ってからはそのまま終点の松江しんじ温泉に向かった。 松江しんじ温泉から松江城まで弱冠距離があるが、松江駅よりも近い。 2001年に二の丸の南櫓、中櫓、太鼓櫓、そしてそれらを結ぶ塀が復元された。その為か、入場料は550円になっていた。 藩主の松平氏が茶人だったこともあって、松江では和菓子が現在も数多く作られ、販売されている。 追記: 2010年10月に再々訪問。 追記: 2013年7月に再々訪問。 二の丸までは無料で、本丸は有料だと思っていたが、本丸も無料だと知った。 天守に入るのが有料、という事。本丸へのメインの入り口の直ぐ側に料金所が設置されているので、本丸自体が有料だと勘違いし易い。 二の丸に洋館興雲閣がある。以前は資料館として利用されていたが、現在は城外に新資料館が完成したので、閉館となった。外から見るのは自由だが、中には入れない。 英語版はこちら。 |
2013年7月 復元櫓群。堀尾吉晴象。興雲閣 天守。天守最上階(開放的で、風が強い) 天守からの眺め(宍道湖、洗合城等)。天守。二の丸から見上げる天守 三の丸。堀川(北側)。復元櫓と天守 復元櫓群。興雲閣 南櫓(復元)。南櫓2階 中櫓(復元)。太鼓櫓 天守。天守最上階 天守の階段。天守詳細 天守。三の丸 堀川(北側)。復元櫓と天守 2010年10月 松江城天守 松江城復元櫓。二の丸上段にある興雲閣 2005年1月 松江城天守(2005/01) |
石垣 |
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別名 |
三本松城、蕗城 |
所在地 |
島根県鹿足郡津和野町 |
種類 |
山城 |
築城者 |
吉見頼行 |
築城年 |
1295年 |
遺構 |
石垣 |
初訪問 |
2003年 |
備考 |
津和野城を最初に築いたのは吉見頼行。1295年のことである。築城期間は30年間にも及び、完成した頃には頼行の子の代になっていた。 津和野城は戦国時代に入って幾度も合戦に巻き込まれているが、功城戦に持ちこたえたことから中国地方屈指の名城と讃えられるようになった。 その後坂崎氏や亀井氏が入り、幕末に至る。建物は明治初期に解体され、残るのは石垣となった。 標高367メートルにあることもあって、建物は解体できたものの石垣には手を付けられず、その結果ほぼ全ての曲輪の石垣が保存されているという全国でも類を見ない城跡となった。 |
感想 |
旅行ガイドブックでは「萩・津和野」とセットになっている場合が多い。萩は山口県だから、津和野も山口県……と思われることが多いらしい。実は島根県にある。 津和野は小京都とされ、町全体が観光として整備されている。レンタサイクルもあり、町内を回り易い。 津和野城がある山は、徒歩でも登れるが、ロープウェイを使うのが無難だろう。ロープウェイ駅にたどり着く前にかなり上らなければならないが。 津和野城そのものは無料で入れる。石垣が見事で、どうやって石材をこんな所に運んだのだ、と感心する。 本丸からは町が一望できる。 津和野の近くに益田市があり、そこには稲積城と七尾城がある。 |
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別名 |
烏城、金烏城、石山城 |
所在地 |
〒700 岡山県岡山市丸の内2-3-1 |
種類 |
平山城 |
築城者 |
宇喜多秀家 |
築城年 |
1597年 |
遺構 |
本丸、石塁、現存櫓二、濠、鉄筋コンクリート外観復元天守 |
初訪問 |
1995年(再訪2012/12) |
備考 |
かっての岡山城は石山と呼ばれる場所にあった。城主の宇喜多秀家は豊臣秀吉の養子になったことで、57万石の大名になり、石山の城は小さ過ぎると感じた為、現在の場所に新しく城を築くことにした。1590年から工事は始まり、1597年に完成した。櫓数35、城門21の巨大な城だった。 関ヶ原の戦いの後、秀家は島流しとなり、代わりに小早川秀秋50万石が入城したが、二年で死亡。子がなく、断絶した。その後、姫路系・鳥取系の池田氏31万石が入城し、明治を迎えた。 維新まで多くの建造物が残っていたが、明治になると、天守、櫓二、門一以外、全て取り壊されてしまった。天守は二度も国宝に指定されたが、石山門とともに大戦で焼失した。 城と怪談は切り離せないらしく、岡山城にもある。それどころか、天守に開かずの間があったほどだ。 小早川秀秋は、関ヶ原の合戦後、50万石の大大名になった。27歳の時である。宇喜多氏が去った後、岡山に入った。 秀秋は暴君で、税を上げ、罪のない者を処刑させた。 家臣の村中主水は、主君の関心を買う為、小早川家に古くから使えていた重臣杉原長房が、秀秋に対して何か企んでいると申し出た。 長房は天守に呼ばれ、二層の一部屋で暗殺された。それだけでなく、長房一族も切腹、あるいは自害させられた。 長房が惨殺された部屋には血痕が残った。畳を取り替えても血が浮き出てしまうのだ。部屋の前を通ると不気味な音がすると噂されるようになった。また、部屋に入った者は異常な死に方をした。この為、部屋は開かずの間となった。 村中主水は変死し、秀秋も急死した。秀秋が死を迎えた際、開かずの間から笑い声が聞こえたという。 小早川家は断絶となり、池田忠継が32万石で入城した。話を聞き、天守修理の際も開かずの間には手を付けなかった。 この話に疑問がないともいえない。怪談では秀秋はわがままな暴君となっているが、そんな男が、関ヶ原で家康の命令通り西軍を裏切ったと思えない。肖像画から見るといかにも弱々しい男だ。西軍を指揮した石田三成を夢に見て狂死した、の話もある。こちらの方が説得力がある。 |
感想 |
岡山城へは、駅から真っ直ぐ伸びる大通りをそのまま進めば到着する。ただ、1キロ以上あるので、大通りを通る路面電車を使うのが無難だろう。 天守は、城内より対岸(後楽園)から望んだ方が良い。 現在公園となっている岡山城の全域が本丸である。上段、中段、下段に分かれている。通常なら本丸、二の丸、三の丸となっていてもおかしくないから、いざ他人に説明するとなるとややこしくなる。 天守のある本丸上段までは無料で行ける。ただ、上段の門は年末年始は閉鎖される。 天守の入場料は、最後に入った時は300円だった。特別展示があると800円にもなる。鉄筋コンクリートとあって、中は図書館かと見紛うほど素っ気ない。 遺構は岡山城公園だけでなく、近くの小学校にもある。 岡山市内には他に秀吉による水攻めで有名な備中高松城や、撫川城や、庭瀬城がある。 2012/12に再訪。 年末だったので、本丸上段までは行けたが、天守は休館となっていた。 外観復元天守なので、特に落胆はしなかったが、今回の旅行では年末とあって、なかなか目的を達成出来なかった。 英語版はこちら。 |
復元天守、月見櫓 2012/02 天守。隅櫓。不明門 本丸南部石垣。不明門 本丸上段内門。天守 天守。月見櫓 天守 天守 |
松山城天守 |
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別名 |
高梁城 |
所在地 |
〒716 岡山県備中高梁市内山下1 |
種類 |
山城 |
築城者 |
水谷左京亮勝宗 |
築城年 |
1683年 |
遺構 |
本丸、二の丸、三の丸、石塁、現存天守二層二階(重文)、現存櫓、現存城壁、復元櫓 |
初訪問 |
1996年(再訪2012/11) |
備考 |
備中松山城の歴史は、1240年、秋庭三郎重信が臥牛山に砦を築いたことから始まる。城主は時代を経て変わり、戦国時代末期には三村氏の居城となる。しかし、三村氏は毛利・織田の対立の間で綱渡りを強いられ、滅んでしまい、城は毛利の東方進出の拠点となった。 関ヶ原の後、毛利氏は松山城を手放す羽目になる。以後、池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏……と城主が変わり、明治維新を迎える。 現存天守は水谷勝宗が修築したものだと伝えられている。 なお、臥牛山は四つの峰からなり、今の城があるのは小松山である。 だから松山城という。 更に北(事実上の山頂)に「大松山城」がある。本来備中の松山城といえばそこであり、現在の松山城は「小松山城」と呼ばれていたらしい。 |
感想 |
最寄の駅はJR備中高梁駅。 松山城は駅からかなり離れたところにあり、しかもバスも通っていないから、かなり歩く羽目になる。麓に到着すると山中の駐車場まで走るバスがある。往復で200円。なぜ駅まで行かないのかと疑問に思う。 本丸までは無料で入れる。天守に入るには300円支払わなければならない。 天守一階の床に、40センチ四方の四角い穴があったので、何だこれはと思って近付くと囲炉裏だった。囲炉裏がある天守はここだけだろう。 追記:2004年2月 この時は、麓と山中を結ぶバスは走っていなかった。標識だけは至る所に立ててあり、料金は往復で300円となっていた。 復元工事費用を回収する為か、入場料は天守ではなく本丸入り口で払うようになっていた。つまり、天守に上がる、上がらないに関係なく、本丸に入るなら入場料を支払わなければならない。 そのこともあって、以前は通れた本丸内の門が閉じられていた。 追記:2012年12月 麓と山中を結ぶバスは相変わらずあるが、そこと駅を結ぶ交通手段はない。 |
備中松山城(小松山城、手前)と大松山城(奥) 2004/2 天守。最小の現存天守らしい 2012/12 上太鼓丸の石垣 大手門石垣。二重櫓。後曲輪の九の櫓 後曲輪から見た二重櫓と天守。天守1階 天守1階。天守2階の屋根組み。天守1階 天守から望む二重櫓。狭間から見た二重櫓。二重櫓 天守と五の平櫓。三の丸から望む石垣。三の丸辺りの紅葉 上太鼓丸の石垣 上太鼓丸の石垣。大手門付近の石垣 二の丸から望む天守と五の平櫓。二重櫓 九の櫓。二重櫓と天守 天守 天守1階。1階の囲炉裏 装束の間 天守1階。天守2階 天守2階の祭壇。天守出口から望む紅葉 本丸内の門。二重櫓 三の丸から望む高梁市 |
公園となった城跡 |
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別名 |
沼城 |
所在地 |
岡山県岡山市高松 |
種類 |
平城 |
築城者 |
石川久弐 |
築城年 |
16世紀前半 |
遺構 |
本丸、濠 |
初訪問 |
1995年 |
備考 |
天下統一を目前にした織田信長は、中国地方の毛利氏を征伐する為、秀吉に備中を攻め込ませた。数万の大軍で七城を攻略した後、高松城を囲んだ。1582年4月27日だった。この時の高松城主は清水宗治である。 正攻法で城を落とそうとするが、天然の濠に阻まれ、失敗した。そこで秀吉は水攻めにすることにした。高さ7メートルの堤が2週間後完成する。 川水は城内に流入し、城は湖中に孤立してしまった。 講和の話が進められた。城主宗治が切腹すれば城兵を救うと。宗治はそれに同意した。 この頃、信長は明智光秀に暗殺される。この知らせは翌日秀吉の耳に入った。主君が殺された為、中国征伐は自動的に延期。高松城を落とす理由はなくなったのである。 しかし、秀吉はこの報を宗治に伝えなかった。何も知らない宗治は切腹した。高松城は落城したのである。 その後、高松城は宇喜多氏の城になり、重臣英房正成が城主となった。関ヶ原後、家康の旗本花房職之が入城。後に廃城となった。 |
感想 |
最寄の駅は備中高松駅。駅に城の位置を示す地図があるので、大体分かる。500メートルほど離れている。 高松城跡は現在公園となっている。水攻めに遭ったのも当然と思わせるほどの平地である。城跡ですよ、という説明板がなかったら、そうとは気付かないだろう。 追記(2005/03): 現在、一帯は平地となっている。山が一切ない地に城なんか築けたのか、とこれまでは思っていたが、2005/3の湯築城訪問で見方が変わった。飛び道具の威力も射程距離も限られていた中世では、「堅固な城を築くには山にしなければならない」という訳ではなく、何重もの幅の広い堀で固めるだけで充分堅固な城にすることができたようである。 ただ、この城の場合、鉄壁の天然濠が逆に落城の原因になってしまったが。 |
復元工事が進められていた備中櫓 2012/12の備中櫓 |
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別名 |
鶴山城 |
所在地 |
岡山県津山市山下 |
種類 |
平山城 |
築城者 |
山名忠政 |
築城年 |
1441年 |
遺構 |
曲輪、石垣、堀 |
初訪問 |
2005年(再訪2012年12月) |
備考 |
津山城は、山名忠政が鶴山(つやま)に城を建てたのが始まり。山名氏が応仁の乱で衰えると共に廃城となった。 関が原の戦の後美作国に転封された森忠政が、新たな城として鶴山に目を付け、津山と改名すると、現在残る城を完成させた。 森氏は4代95年続いた後断絶。代わりに松平氏が入城し、明治に至る。 明治維新の段階で4層天守を始めにかなりの建築が残っていたが、全て取り壊され、石垣を残すのみとなった。 現在は備中櫓が復元されている。 |
感想 |
津山は、1996年に鳥取を訪れ岡山に移動する際に通過した。立ち寄るべきだったが、天候不順で諦めた。 津山と岡山はJR津山線で結ばれているが、本数が少ないので、長い時間をかけて見ることはできなかった。 石垣は見事で、高いもの、低いもの、長いもの、短いもの……、と様々な石垣が組み合わさり、見るだけでも面白い。 城は本丸、二の丸、三の丸……、と内郭がほぼ完全に残っている。三の丸から入るが、そこに入るのにも入場料210円が必要。 天守を含む建築物は明治時代に全て取り壊されてしまったが、自分が行った時点では本丸備中櫓を復元中だった。 2012/12に再訪。 城内を見て回ろう、と意気込んで入り口に立ったらが、年末年始の為閉鎖されていた。 そんな事もあり、外から眺めるしか出来なかった。 |
2005年 2012年 城南部の石垣 城北部の石垣 入り口への石段。入り口へと通じる通路沿いの石垣 南部石垣。北部石垣 |
2012/12の門 |
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別名 |
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所在地 |
岡山県岡山市撫川 |
種類 |
平城 |
築城者 |
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築城年 |
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遺構 |
本丸、石塁、濠の一部 |
初訪問 |
1997年(再訪2012/12) |
備考 |
撫川城は、平清盛の重臣である妹尾氏が築いたのが最初だといわれている。戦国時代には松山城主だった三村氏の持城だったこともある。 この城を秀吉軍が攻めたが、落城させられず、撤退した(別の本では落城したと書かれているが……)ということで、町民の誇りだという。誇りなら駅で案内してもいいと思うのだが。 江戸時代は庭瀬藩戸川氏のものとなった。その後、城は二つに分割され、西の城地が撫川城、東の城地が庭瀬城となった。 |
感想 |
一度に2城訪れられる、ある意味美味しい城。 庭瀬駅から徒歩10分程度の距離にある。 撫川城の方が石垣が本格的で、城らしい。 2012/02に再訪。 濠の直ぐ側まで宅地化が進み、城の外から石垣が望め難くなった。 |
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2012/12の様子 |
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別名 |
芝場城(コウゲ) |
所在地 |
岡山県岡山市撫川 |
種類 |
平城 |
築城者 |
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築城年 |
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遺構 |
濠、案内板 |
初訪問 |
1997年(再訪2012/12) |
備考 |
元々撫川城の一部だったが、江戸時代に分割され、2つの城になった。 |
感想 |
一度に2城訪れられる、ある意味美味しい城。 2012/12に再訪。 撫川城より公園化として整備されているが、残念ながら石垣等の遺構は撫川城に劣る。 遺構はあるが周辺が整備されていない撫川城、整備されているものの遺構が少ない庭瀬城。 どちらがいいのか。 |
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