津村巧の

城巡り

TAKUMI TSUMURA'S

CASTLE GUIDE

 

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003

 

広島城

福山城

三原城

萩城

吉田郡山城

宮尾城

猿掛城

甲山城

岩国城

勝山城

 

 

 

 

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広島城

 

   

復元天守(ニコンD300)。復元天守(2013/12撮影。ペンタックスK-5U)

 

別名

鯉城、在間城、当麻城、石黒城、御篠城

所在地

730 広島県広島市中区基町21

種類

平城

築城者

毛利輝元

築城年

1591年

遺構

本丸、二の丸、濠、鉄筋コンクリート5層5階外観復元天守、復元二の丸櫓、復元二の丸門

初訪問

1993

備考

 広島城は名門毛利家112万石の居城として1592年に建てられたが、関ヶ原の戦いの後、福島政則の城となった。後に政則は幕府に騙され、49万8000石から4万5000石に減らされ、信濃高井に移された。

 関ヶ原の戦いの直前、東軍となる大名たちの間で会議が行われたが、その時に家康の為に演技したのが政則だ(石田三成と特に仲が悪かったらしい)。お陰で多くの大名は家康側に付いた。そんな政則がこんな扱いを受けるなんて……。家康はタヌキと言われるが、全くその通りだと思う(実際に騙したのは息子の秀忠だった。家康と家光の名将軍に挟まれ、いくらか影の薄い人物だが、家光に劣らぬ冷酷さで多くの大名を取り潰した)。

 政則の後、浅野長晟(三原城を支城とする)が42万石で入城し、浅野氏はそのまま明治維新を迎えた。

 現在、広島城には本丸と二の丸が残され、水壕も残されている。本丸には護国神社が建てられ、城跡には場違いな車用の道路がある。実際、その辺りを歩いていると城跡にいる実感が湧かない。三の丸には県庁が建てられ、城の面影は全く残っていない。

 本丸は比較的高い北半分と、比較的低い南半分から成り立っていて、北半分は犬走りのような低い石垣に囲まれている。本丸はかなりの面積があるが、二の丸は非常に狭いのが特徴。

感想

 広島に越してまず行ったのが原爆ドームでも、平和資料館でもなく、広島城である。

 広島城本丸は上段・下段に分かれている。他の城だったら本丸・二の丸として区分される程の規模である。

 一方、他の城だったら二の丸は出丸と称されるほどの規模。

 天守には本来小天守が二つあった。これらを復元しよう、という話もあったそうだが、財政難に陥っている現在、無理な話。

 本丸、二の丸は入場は無料。天守に上るには300円の入場料を支払わなければならない。

 

  

復元天守、石垣と濠、復元太鼓櫓

 

復元櫓門

 

2013

 

   

 

  

 

 

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福山城

 

  

復興天守(中央と右は2012/08)

 

別名

久松城、葦陽城 (イヨウ)

所在地

720 広島県福山市丸之内1-8

種類

平山城

築城者

水野勝成

築城年

1622

遺構

本丸、石垣、鉄筋コンクリート5層6階地下1階復興天守(1966年再建)、櫓、御殿の一部

初訪問

1994

備考

 福山城は水野勝成によって1622年に築かれた。

 久松城とも呼ばれるこの城は水野氏5代、松平氏1代、そして阿部氏10代が城主となり、明治を迎えた。どの城主も10万石であった(阿部氏7代正広から11万石)。

 城が築かれた山は蝙蝠(コウモリ)山と呼ばれていた事から、福山市の紋章も蝙蝠がモチーフになっている。蝙蝠は古来は「福」に近い文字の為縁起の良い動物と見なされていたが、現在はそう見なされず、「薔薇の町」として自身を売り出す事に躍起になっている。

感想

 城が駅から遠過ぎると行きたくなくなるので、城が駅の側にあるのは悪い事ではない。

 ただ、福山城のように目と鼻の先にあるのもどうかと思う。

 残されているのは本丸跡だけだが、現存建築が比較的多いのがせめての救い。

 本丸に入るのは無料。鉄筋コンクリートの天守に入るには入場料が必要。自分が行った時は200円だった。

 城の周辺は高層ビルが続々と建っていて、以前は駅到着前から天守が望めたが、今は駅に到着してやっと天守が望める程度に留まってしまった。

 日本の都市計画は計画になっていない、としか言いようがない(福山市が異常なのかも知れないが。駅前にあった城の遺構を破壊してバスターミナル(単なるバス専用駐車場)を作る等、文化財をガンガン破壊し過ぎ)。

 

  

伏見櫓、城門

 

2012/08の福山城

 

  

筋金御門。月見櫓。鏡櫓

 

  

湯殿。復興天守。筋金御門

 

  

鐘櫓。復興天守。伏見櫓

 

  

伏見櫓。月見櫓

 

  

本丸内から見た湯殿と筋金御門。筋金御門

 

湯殿

 

 

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三原城

 

  

三原城天守台(北東、北東、三原駅から)

 

別名

浮城

所在地

広島県三原市館町・城町・本町

種類

平城・海城

築城者

小早川隆景

築城年

1580年頃

遺構

石塁、濠、本丸の一部、天守台

初訪問

1994年。2011年再訪

備考

 三原城は小早川隆景によって築かれた。彼は毛利元就の三男である。兄には毛利隆元、吉川元春がいた。この三人が『三本の矢』を折ってみろ、と言われたと伝えられている(後世に作られた話だと言われているが)。

 水軍を重視した毛利家は、三原城を重要な水軍基地とした。城が海に浮く海城であったり、2000平方メートルにも及ぶ大きな舟入りあったのもこの為だ。

 しかし、小早川隆景の死後、三原城は福島正則、浅野長晟(ナガアキラ)の持城となり、その内分家の浅野忠吉が3万5000石で入城し、明治を迎えた。この頃には水軍基地としての機能は大幅に低下していた。

感想

 福山駅は福山城本丸の目と鼻の先にあったが、三原駅は三原城本丸そのものに建てられている。駅から出て振り向くと石垣を繰り抜いた出口を通ったことに気付く、という具合。

 三原城本丸へ行くには、駅舎に入らなければならない(構内に案内の標識がある)。

 城跡はもう二箇所ある。駅の南に位置する城町にある舟入櫓跡と、駅の南東に位置する一番櫓跡である。

 舟入櫓・一番櫓跡は、築城当時は海に面していたが、現在は周辺が完全に埋め立てられていて、ここは昔は海だったと言っても誰も信じないだろう。なぜこの程度を残したのか、と思いたくなるほど何も残っていない。

 三原城本丸も、舟入櫓跡も、無料で入れる。

 一番櫓跡は石垣が僅かに残されているだけである。

 

本丸石垣。この位置から更に左に目を向けると、本丸が駅と合体しているのが分かる

 

  

舟入櫓跡。天守台から望む桜山城。天守台(西側)

 

  

舟入櫓跡内から石垣を望む。舟入櫓の石垣。一番櫓跡

 

  

天守台(西側から)。天守台(北東から)

 

  

天守台(三原駅北口から)。天守台敷地から

 

  

天守台内。天守台内から望む桜山城

 

  

天守台から望む濠の西側。舟入櫓跡(北東から)

 

  

舟入櫓跡(東側)。舟入櫓跡(西側)

 

  

舟入櫓跡入り口。舟入櫓跡内

 

  

舟入櫓(南側から)

 

  

一番櫓跡

 

  

一番櫓跡

 

天守台跡

 

舟入櫓跡

 

一番櫓跡

 

三原城絵図

現在は城のほぼ全てが市街地と化し、南の海も数百メートル埋め立てられてしまっている

 

 

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田郡山城

 

百万一心の碑。「一日一力一心」と読めなくもない。2005/03撮影。1997の時は見れなかった

 

別名

 

所在地

広島県高田郡吉田町

種類

山城

築城者

毛利元就

築城年

1533年

遺構

本丸、二の丸、三の丸、土塁、石塁、空堀、井戸

初訪問

1997

備考

 元就が毛利家を継ぐことになって猿掛城から郡山城へ移った時、郡山城は郡山の南東部分を占めるに過ぎなかった。これが現在「旧本城」と呼ばれている曲輪である。

 郡山城は元就が勢力を広げると同時に拡大され、最終的には郡山全域が城となった。

 郡山城が他の山城と違うことは、本丸を中心に曲輪が放射状に配置されていることである。他の山城では、曲輪が直線状に配置されているのが多かった。

 また、これまでの山城は戦時専用の砦に過ぎず、平時は梺の館で城主が生活するのが常例だった。郡山城では平時でも城主は山に住んでいた。つまり、郡山城は平時・戦時の場が合体した、後の平山城や平城のような城だったのである。

 最盛期には立地面積が7万平方メートル、曲輪の数が200以上にも及び、日本で最大の山城の一つとなった。部分的ながらも石塁が利用され、堅固な城塞だったと思われる。

 しかし、元就の孫の輝元は、上洛した際、秀吉の大坂城や聚楽第そしてその城下町を見て、郡山城が時代遅れなのを悟った。輝元は国に戻り、新城を築くことを決意した。こうして築城されたのが広島城である。

 郡山城は広島城完成後、廃城になった。それでも石垣などは残っていたらしいが、島原の乱の後、キリシタンに使用されるのを恐れた幕府は徹底的に郡山城を破壊した。大大名の居城であったのにも関わらず、遺構が少ないのもこの為である。

 秀吉は平山城を好んだ。豊臣大坂城も、名護屋城も、平山城である。家康は平城を好んだ。名古屋城を見れば明らかである。

 しかし、毛利氏は山城を好んだらしい。郡山城を見れば分かる。広島城は平城だが、これは例外のようで、輝元が長州に移された際、新たに築いた城は山頂に詰めの曲輪を持つ縄張りだった。これが萩城である。

感想

 NHK大河ドラマ「毛利元就」が放送されていた時に行ったので、全体的に整備されていた印象を受けた。「毛利元就」ブームが去った現在はどうなっているかは不明(追記参照)。

 本丸のある頂上まで、無料で行ける。ただ、ロープウェイのような大層なものはなく、徒歩でひたすら上らなければならない。

 側に青山城、光井山城、天神山城、そして毛利元就の生誕地でもある猿掛城がある。

 

追記:

 2005/03に再訪。高知から広島を訪れた中世の城の保存会一行と共に。ガイドさんが同行した為、前回来た時は行けなかった場所、行こうと思ったが行けなかった場所にも行けた。

 保存会には考古学の専門家もいて(当然だよね)、「堀切が少なく、高知の中世の城と比べると防備が薄い」とコメント。自分は「山城はどれも堅固だ」と思っていたが、そうでもないらしい。当たり前といえば当たり前だが。

 この直後に猿掛城にも行った。

 高田郡吉田町は周辺の町と合併した為、郡山城は現在安芸高田市にあることになる。安芸高田郡山城と称さねばならないのかね。

 ちなみに、大河ドラマが終わってからは、地域は全体的に閑古鳥が鳴いているという。

 

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宮尾城

 

城跡としては特に整備されていない

 

別名

要害山(ヨウガイザン)

所在地

広島県佐伯郡宮島町要害山

種類

海城(丘城)

築城者

毛利元就

築城年

 

遺構

 

初訪問

1996

備考

 宮尾城は、中国地方を征した戦国大名毛利元就が、陶晴賢を迎え撃つ為に築いた囮城である。元就は、陶晴賢側に、宮島の宮尾城が弱点であると思わせた。この偽情報にまんまと食らい付いた陶晴賢は、2万の大軍で宮島に上陸し、宮尾城を攻め落とそうとした。

 宮尾城の兵は500足らずだったということだが、城兵はあらゆる策で攻撃を退け、逆に陶軍に大被害を与えた。

 この間に、元就は宮島の北側の包ヶ浦に上陸し、悪天候を利用して陶軍の陣地を次々壊滅させ、陶晴賢を自決に追い込んだ。こうして巌島の戦いは終結した。

 諜報作戦や、天候を活用し、小軍で大軍を破った。この為、巌島の戦いは、義経の鵯鳥越の戦いや、信長の桶狭間の戦いと共に、日本三奇襲戦の一つに数えられている。

 宮尾城は、当時は三方が海に囲まれていたということだが、現在、周囲は埋め立てられ、近代的な建物が乱立している。

感想

 宮島にある城である。

 フェリー乗り場を出ると宮尾城への入り口が望める。

 城内には展望台があるだけで、城があったと示すものは特にない。臨時的に築かれたもので、巌島の戦の後に直ちに破却されただろうから、当然か。

 

  

宮尾城内。厳島神社の大鳥居。厳島神社本社

 

 

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猿掛城

 

猿掛城本丸。左側の高台はいわゆる「天守台」

 

別名

 

所在地

広島県安芸高田市吉田町多治比

種類

山城

築城者

毛利弘元

築城年

 

遺構

曲輪、土塁

初訪問

2005年

備考

 毛利元就が青少年期を過ごした城として有名。

 毛利広元が4歳の息子元就を伴って郡山城から猿掛城へ移り、隠居したのである。

 毛利家では、代々跡継ぎ(長男)は「〇元」という名が与えられた(広元もその例)。したがって、元就は本来毛利宗家の跡継ぎではなかったのである。

 元就はこの城の城主として一生を終えても不思議ではなかったが、毛利家が当時仕えていた有力大名の後押しもあって毛利宗家を1523年に相続し、毛利家の本城吉田郡山城へと移る。

感想

 1997年に吉田郡山城を訪れた際、行こうと思っていたが、交通の便が悪い(バスで行かなければならない)ので断念した。

 2005/03、高知の中世の城保存会から「吉田郡山城と湯築城へ行くので、一緒に行きませんか?」お誘いがあったので、参加することに。猿掛城は当初の予定には入ってなかったが、希望が多かったので、入ったらしい。

 猿掛城へ向かったのは吉田郡山城を訪れた後。既に5時近くになっていた。

 山城なので、当然ながら山の上にある。バスでは入り口までしか行けず、後は徒歩で上るしかない。吉田郡山城ほど高い山でなかったのはせめての救いか。

 保存会には考古学の専門家がいた。70歳という年齢にも拘わらず足がやけに速く、こちらは付いていくのに苦労した。

 吉田郡山城は山頂の本丸を中心に曲輪が放射線状に配置されている、という縄張りだったが、こちらはそれほどの規模ではなかった。が、本丸に後の時代には天守台に相当する高台がある点は、吉田郡山城に似ていた。

 本丸南部は高さ10メートルほどの崖。自然のものかと自分は思ったが、考古学の専門家によると、これは堀切で、本丸の南の防御力を高めるものだとコメント。素人が気付かないものも、専門家が見ると一目瞭然らしい。

 本丸南部の縁は少し高くなっていたが、それは土塁跡だ、とのこと。

 今回の猿掛城訪問では、ガイドさんと考古学の専門家のお陰で10回分の訪問に相当する情報を得られた。

 猿掛城は本丸、出丸、物見丸から成り立っているが、本丸より出丸の方が見応えがあるとか。

 

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甲山城

 

甲山城址

 

別名

 

所在地

広島県庄原市本郷町

種類

山城

築城者

山内氏

築城年

1355年

遺構

一の丸、二の丸、三の丸

初訪問

2009年10月

備考

 甲山城(こうやま)は、山内氏の居城。

 山内氏は元々現在の鎌倉市の一部を本拠地としていたが、現在の庄原市辺りの地頭に任じられ、転居。

 当初は蔀山城(しとみやま)を現在の庄原市北部に城を築いたが、1355年に甲山城を築き、移住。

 山内氏はその後成長し、備後における有力戦国大名となった。

感想

 三次市から庄原市中心街に向かって国道183号線を進むと、国営備北丘陵公園入り口の手前で「円通寺・甲山城址←」の看板がある。

 その看板に従って国道を離れ、県道を進むと、次の看板が。看板通りに畑の間のあぜ道のような細い道を進むと、円通寺にたどり着く。

 寺の裏側に「甲山城址」と刻まれた石碑があり、その更に裏に甲山城へと続く山道が。獣道のような山道を上り詰めると、木々が生い茂る平地にたどり着く。一の丸、二の丸、三の丸である。

 遺構はあることにはあるが、素人目には単なる台地にしか見えない。

 

   

円通寺。寺の横にある石碑

 

   

石碑の近くにある案内板。山道を登った所にある一の丸

 

 

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岩国城

 

復興天守

 

別名

横山城

所在地

741 山口県岩国市横山2丁目

種類

山城

築城者

吉川広家

築城年

1603年

遺構

鉄筋コンクリート4層5階復興天守(1962年再建)、復興天守台

初訪問

1994

備考

 岩国城は吉川広家によって築かれた。上の層が下より張り出している南蛮造りという珍しい天守を誇っていた。

 が、一国一城令により、1615年に廃城。完成から僅か7年しか経っていなかった。

 その後麓は吉川家の屋敷が築かれた。

 現在の復興天守は、本来の天守があった場所からずらして建てられている。山麓からの眺めを考えてのことらしい。

 岩国の最大の見所は、日本三奇橋の一つである錦帯橋。元は城と城下町を結ぶ橋だった。

感想

 岩国城に最も近い駅は岩徳線の西岩国駅か川西駅だろう。しかし、岩徳線は本数が少ないので、岩国駅からバスで向かうのが一番便利と思われる。

 岩国城と岩国駅は約3キロ離れている。最初訪れた時は徒歩で往復したが、今振り返るとよく歩けたなと思う。

 錦帯橋は有料で、往復210円。

 岩国城へはロープウェイで行く。往復540円。800円出すと天守入場のセットになる。ロープウェイは20分置きに出る、となっているが、客が多いと10分間隔で出すので、混んでいなければ待ち時間は短い。

 吉川家の屋敷跡に造られた吉川公園は、これといったものがないにも拘らず、観光客で賑わっている。

 

  

復興天守、錦雲閣、錦帯橋

 

 

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萩城

 

  

天守台(南東から)。指月山(天守台付近から)。天守台(南から)

 

別名

指月城

所在地

山口県萩市堀内

種類

平城・山城

築城者

毛利輝元

築城年

1605

遺構

石垣

初訪問

2003

備考

 中国地方を支配していた毛利氏は、関ヶ原合戦で西軍側に付いた為、領地を減らされることになった。毛利氏は本城広島城を出て、新たな居城を築かねばならなくなったのである。

 毛利氏はいくつかの候補地を幕府に提出した結果、第三候補の萩での築城許可が下りた(第一候補は防府の桑山、第二候補は250年後の幕末に毛利氏が幕府に許可を得ることなく築城した山口の高嶺)。

 毛利氏は、指月山の山麓に平時用の城、指月山の山頂に戦時用の要害を設けるという戦を視野に入れた縄張りを行った。

 指月山は日本海に面していることから、萩城はいざ戦争になれば難攻不落の水城となる筈だった。しかし、幕末になると海に面する城は外国船からの砲撃を直接受ける、という危険性が指摘され、毛利氏は幕府の許可を得ずに山口の高嶺に山口城を築き、藩庁を移した。

 その結果萩城の政治的意義は失われ、明治維新後は真っ先に廃城となった。

 戦国時代は「難攻不落」の要因となった天然の壕(海)が、260年後には最大の弱点になってしまい、その結果捨てられる……。時代の流れを感じさせる城である。

感想

 最寄の駅は東萩駅。といっても、萩城から3キロと、かなり離れている。駅前にはレンタサイクルがあるので、それを利用するのが無難。

 萩は萩焼の本拠地で、あちこちで萩焼を売っている。古い町並みが残った旧市街地に入ると、萩焼の販売店ばかりになる。

 旧市街地は古い町並みが良く保存してあり、明治維新で活躍した人物の住宅が多く見られるが、萩城そのものは忘れられたような存在で、辛うじて公園ぽく整備されている、といった感じ。入場は無料である。

 城内には旧福原家書院以外、何も残っていない。石垣だけである。

 裏にある指月山には詰の丸があり、そこにも石垣が残っている。ロープウェイなどはないので、徒歩で上るしかない。泥道なので、足元に注意する必要がある。

 萩市内はこれといった歓楽街はない(見付けられなかっただけか)。

 

2003年撮影

 

萩城本丸石垣。背景にあるのは詰の丸がある指月山

 

2012年8月撮影

 

  

菊ヶ浜から望む指月山。二の丸から望む本丸石垣と指月山。本丸石垣(月見櫓辺り)

 

  

天守台。天守台(南西から)。天守台(西から)

 

  

指月山。天守台(西から)。門櫓

 

  

門櫓辺りから望む天守台。西門から望む天守台。本丸から望む指月山

 

  

本丸から望む天守台(北西から)。天守台から望む指月山。天守台から望む本丸内門辺り

 

  

天守台から望む指月山。本丸内。花江茶室

 

  

東園。詰の丸への道

 

  

詰の丸入口(要害門)。詰の丸。詰の丸石垣

 

  

詰の丸石垣。詰の丸。要害門

 

  

要害門辺りの石垣。水濠。萩城碑

 

  

本丸内門から望む天守台。北櫓辺り。二の丸時打櫓石垣と指月山

 

  

菊ヶ浜から望む指月山。二の丸から望む本丸石垣と指月山

 

  

二の丸から望む本丸石垣と指月山。本丸内門

 

 

  

天守台

 

  

天守台

 

  

天守台(西から)。天守台(右)と門番櫓前の石垣

 

  

天守台(右)と門番櫓前の石垣。門櫓

 

  

岡崎櫓跡。天守台(北西から)

 

  

天守台(北西から)

 

  

天守台付近から望む指月山。天守台辺りから門櫓方面を望む

 

  

天守台。天守台辺りから門櫓方面を望む

 

 

  

天守台入口。天守台内部

 

  

天守台から望む指月山。天守台から望む本丸内門方面

 

  

本丸内から望む石垣。石垣上面から天守台を望む(東から)

 

  

書院。庭園

 

  

花江茶室。書院内

 

  

書院内(床が沈み込んでいる)。東園

 

  

東園。詰の丸登山道

 

  

詰の丸登山道。詰の丸(要害門)

 

  

詰の丸(要害門)。案内板

 

  

詰の丸内から見た要害門。詰の丸

 

  

詰の丸

 

  

詰の丸石垣。詰の丸から望む萩市内

 

  

詰の丸石垣

 

  

詰の丸

 

  

詰の丸。要害門

 

  

要害門

 

  

要害門辺りの石垣。登山口(山頂の詰の丸まで道のり730メートル。標高143メートル)

 

  

 

  

天守台、本丸内門。塩入門

 

  

塩入門辺りの復元土塀。塩入門辺りの石垣

 

  

北櫓

 

  

北櫓

 

 

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勝山城

 

 

石碑

 

別名

 

所在地

広島県廿日市市宮島町

種類

 

築城者

大内義興

築城年

1524

遺構

藩庁門

初訪問

2011年(再訪2013/01)

備考

 大永4年(1524年)に大内義興が瀬戸内海に覇権を広げる途中、宮島を支配していた友田興基を攻略した時に、厳島神社の背後にある山に勝山城を築いたのが始まりとされる。

 勝山城で年越しをした義興は、瀬戸内海を挟んだ対岸にある山に門山城を築くと、安芸国を攻める拠点とした。

 義興が勝山城に滞在したのは2、3ケ月程度だった為、本格的な城というよりは陣城(合戦の際に敷いた陣の防備を固め、敵の襲撃にも耐えられる様にしたもの)程度のものだったらしい。

感想

 宮島は、神の島と崇められながらも、度々戦の舞台となっている。

 これまで宮尾城は知っていて、宮島を訪れる度に訪れていたが、ウェブページで更に勝山城という別の城がある事を知った。

 調べてみると、厳島神社の付近にある宝塔の側にある、との事だった。

 宝塔には、1度だけ訪れていたが、そこが城跡だったとは全く気付かなかった。

 2011年の正月に、また宮島を訪れたので、ここもついでに訪れた。

 城跡は石碑が立てられているだけで、これといった遺構はない。陣城程度のものだった、というのは間違いない様だ。

 

石碑の側にある宝塔

 

2013/01の勝山城

 

 

 

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