津村巧の

城巡り

TAKUMI TSUMURA'S

CASTLE GUIDE

 

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王宮

 

Cakri-mahaprasad Hall

 

別名

Royal Grand Palace

所在地

Bangkok, Thailand

種類

 

築城者

Rama I

築城年

1782

遺構

宮殿/寺院多数

初訪問

1998

備考

 以前はタイの国王がここに住んでいたが、現在は儀式で使われるだけで、それ以外の時期は観光客に開放されている。

 といっても、中に入れる訳ではないらしい。

感想

 自分にとって初の海外の宮殿。

 さ、ジャンジャン写真を撮ろうと思っていたら、ガイドの人が「じゃ、もう行きます」

 おいおい……。

 観光ツアーは悲しい。この後観光客の為に用意された施設に連れて行かれた。

 入場は有料だが、ガイドさんが手続きしたので、料金は不明。

 タイの国民が敬愛する国王の施設とあって、警備兵はM-16らしき自動小銃で武装していた。

 

    

Dusit Hall, Amarindra Hall, Amarindra Vinichai Hall

 

 

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チットラダ宮殿

 

Chitladda Palace

 

別名

Chitlada Palace

所在地

Bangkok, Thailand

種類

平城

築城者

 

築城年

 

遺構

現国王宮殿

初訪問

1998年

備考

 バンコクには王宮という施設があるが、国王は現在そこには住んでいない。昔は住んでいたらしいが、現在は儀式などで利用されるだけである。現在住んでいるのがチットラダ宮殿である。

 チットラダ宮殿は幅10メートルほどの水壕に囲まれた一辺500メートルほどの方形の区域である。中には王家一族が住む住居や、タイでは神聖な白象の飼育場所や、植物園や、来賓用の施設などがあるらしいが、一般公開されていない。それどころか宮殿に向かってカメラを向けるのも違法だそうだ。壕の内側は塀に囲まれていて、所々に自動小銃で武装した兵士が警備に当たっていた。

感想

 宮殿に向かってカメラを向けるのは違法だと聞いていたので、立ち止まって写真撮影するのはまずい。歩きながら撮影することにした。ぶれる可能性があるが、まあしょうがないと判断してカメラをケースから出し、電池を入れ、警備兵がいない場所でレンズを向けてシャッターを切った。

 撮影が終わった時点で歩きながら何気なくカメラをケースに戻した。これでチットラダ宮殿の撮影は終わった(現像した写真は、ぶれることなくキチンと写っていた)。

 壕の水はバンコク市内の川と同様、濁っていた。が、水質は悪くないらしく、カメが泳いでいるのが見えた。日本だと鯉になるが、ここはさすが東南アジアだ。

 

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ウィンマンメーク宮殿

 

Vinmanmek Mansion

 

別名

Vinmanmek Mansion

所在地

Rajavithi Road, Bangkok, Thailand

種類

 

築城者

ラマ五世

築城年

 

遺構

 

初訪問

1998

備考

 歴代国王の中でも最も偉大と崇められているラマ5世が5年間に渡って住んでいたという建物。ラマ5世が5年間にわたって住んだ後、長く閉鎖されていたが、シリキット王妃の提言で記念博物館になったという。中に入れば豪華なインテリアや調度品が見られるらしい。

感想

 自分が入った時、まだ正式には入場できなかったが、そのことを知らずにきょとんとしていると中に入ることを許された。

 国王の施設とあって、警備兵はM-16らしき自動小銃で武装している。

 ここの側にアナンタサマコン宮殿(Annantasamakhorn Palace)というのがある。これは厳密的には宮殿ではない。元国会議事堂だから。外から眺められるだけで、中には入れない。

 

Vinmanmek Mansion

 

 

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スアン・パッカード宮殿

 

Suan Pakkard Palace

 

別名

Suan Pakkard Palace

所在地

Bangkok, Thailand

種類

 

築城者

チャムポット王女

築城年

1952

遺構

建築物多数

初訪問

1998

備考

「宮殿」の名称が付いているので、名前を聞いた限りではフランスのベルサイユ宮殿や少なくともヴィンマンメーク宮殿のような延々と拡がる巨大建築を連想するが、チャムボット王女(ラマ五世の孫)によって迎賓館として建てられたこのタイ風建築は、こじんまりとしていて、西洋の「宮殿」のイメージからかけ離れている。

 いくつかの民家を渡り廊下で連結したといった規模なのだ。

 内部は回廊の中に木の壁で仕切られた部屋が設けられているといった、日本の寝殿建築を小さくしたようになっていて、仏像や、陶器や、武具が置かれている。

感想

 料金を払って入った施設。他は料金を払ってまで入っていないか、ガイドさんが代わりに払った。

 全体的に小さい。国家の施設でもないらしく、自動小銃で武装した警備兵はいなかった。

 交通量の多い普通の道に面しているので、わざわざ探していない限り見落としてしまうかも。

 歴史博物館が併設されていて、自由に入れるようになっている。マレー半島の古代史について学べる。

 

Suan Pakkard Palace

 

 

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徳寿宮

 

中和殿

 

別名

慶運宮

所在地

大韓民国 ソウル特別市 南大門辺り

種類

 

築城者

月山大君

築城年

 

遺構

石造殿、大漢門、中和殿、徳仏殿など

初訪問

2000年

備考

 徳寿宮は朝鮮王朝第9代国王成宗の兄である月山大君の私邸として使われていたが、1592年に壬辰倭乱で他の王宮が焼失した際、臨時王宮となった。1608年に光海君が即位してからは慶運宮と名付けられ、7年間王宮として使用された。その後王宮は昌徳宮に移されたが、先祖の王の居所として特別な宮と見なされ、その後も王族が使い続けた。1897年に第26代国王高宗がここを再び王宮として使うようになり、その後高宗の長寿を願って徳寿宮と改称され、現在に至っている。

 敷地内にはいくつもの建造物があり、史跡に指定されているものが多い。その一つ石造殿は1909年に完成したもので、韓国初の西洋建築である。入り口の大漢門は古くは大安門と呼ばれ、1904年に焼失したが、1906年に再建された。昔御堂は1593年に第14代国王宣祖が行宮として建てた。1904年に焼失したが、同年にそのままの姿で再建された。成寧殿は国王の寝室だった建物である。

感想

トクスグン」と読む。初めて行った韓国の宮殿。

 中には韓国風の建築や、西洋風建築など、様々な建物が見られた。博物館もある。

 周囲はビルに囲まれていて、古風な韓国風建築とはミスマッチ。この点は日本に似ている。

 ソウル市内は木々が少なかったが、ここは木々が一杯だった。さくらんぼも実っていた。

 狭くはないが、極端に広くもない。

 有料である。700ウォン(当時は日本円で70円。安い)だった。

 地下鉄駅が側にあるので、交通アクセスは悪くない。

 

中和門

 

 

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雲岨宮

 

雲岨宮

 

別名

(雲岨宮の「岨」の部分は正確には山偏に見が組み合わさった字。日本語ソフトでは表示不可)

所在地

大韓民国 ソウル特別市 栗谷路 地下鉄3号線 安国駅辺り

築城者

 

築城者

イ・ハウン?

築城年

 

遺構

老安堂、老樂堂、二老堂など

初訪問

2000年

備考

 雲見宮は第26代国王高宗の父である大院君の家で、高宗は生まれてから2年間ここで育った。大院君は1863年から1873年の間、老安堂や老樂堂や二老堂を建てた。現在ある建物は全て復元のようである。

感想

「ウンヒョングン」と読む。

 先に行った徳寿宮は豪華絢爛な宮殿で、生活感はあまりなかったが、ここは昔の一般住宅のようで、小さな個室や、それらを温める為の床暖房などが見られた。

「宮」の文字が付いていたものの、正式には宮殿ではないのだろう。

 大きな一層の建物に近付く。徳寿宮では柱が赤く派手だったが、ここは柱が茶色っぽく、日本的だった。

 雲岨宮がある辺りは警官が多いように感じた。なぜだろうと思って地図を確認すると、付近にパラグアイ、ホンジュラス、グアテマラなど、南米諸国の大使館があるのを知った。警官はそれらの警備に当たっていたらしい。

 ここも有料。700ウォンだった。

 地下鉄駅が側にあるので、交通アクセスは悪くない。

 

雲岨宮老案堂

 

 

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昌徳宮

 

昌慶宮から見た昌徳宮

 

別名

 

所在地

大韓民国 ソウル特別市 栗谷路 地下鉄3号線 安国駅辺り

種類

 

築城者

朝鮮王朝第26代国王太宗

築城年

1405

遺構

楽善斎、仁政殿、演鹿堂、宣政殿

初訪問

2000年

備考

 昌徳宮は朝鮮王国第3代国王太宗が離宮として建てた宮殿である。その後数度にわたって焼失したが、その度に再建され、1868年に昌福宮の修復が完了するまで王宮として利用された。現在も数多くの建築が残っており、保存状態が良いことから、1997年にはユネスコの世界遺産に登録された。

感想

「チャンドックン」と読む。

 昌徳宮は他の王宮と違い、入場者は自由行動が許されていない。宮内ガイドツアーに参加し、それに沿って行動しなければならないのだ。日本語のツアーもあるが、1時間半かかる。ツアー開始時間も10時半、12時半、2時半、4時半(4時半のは3月から10月限定)と限られている。料金も2200ウォンと、他と比べて3倍も高い(それでも日本円で220円だが)。

 時間的に都合に合わなかったので、入場を断念。正門の前での撮影と、隣接された昌慶宮から覗いての撮影で我慢するしかなかった。

 地下鉄駅が側にあるので、交通アクセスは悪くない。

 

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昌慶宮

 

明政殿

 

別名

寿康宮

所在地

大韓民国 ソウル特別市 栗谷路 昌徳宮の東

種類

 

築城者

挑戦王朝第4代国王世宗

築城年

1419年

遺構

引化門、明政殿

初訪問

2000年

備考

 昌慶宮は朝鮮王朝第4代国王世宗が父の太宗の為に1419年に建てた宮殿である。当時は寿康宮と呼ばれていたが、第9代国王が明政殿や文政殿を築き、昌慶宮へと改称された。

 現在ある建物の殆どは復元である。

感想

「チャンギョンクン」と読む。

 昌徳宮と隣接している。宮殿として使われていた当時はどうだったか不明だが、現在は互いに行き来できない。

 かなり広く、建物が無数にある(復元らしいが)。池のある庭園や、近代的な植物園もあった。

 韓国では、名所で結婚記念写真を撮るのが流行っていたらしく、ウェディングドレス姿の女性があちこちで写真を撮ってもらっていた。韓国人も民族衣装より西洋のウェディングドレスを好むらしい。

 入場料金は700ウォン。入場券は道路を挟んで南に位置する宗廟の入場券と共通である(陸橋を渡る)。

 宗廟も面白いことには面白いが、なぜ隣接している昌徳宮に入るのに別料金を支払わなければならないのか分からない。

 地下鉄駅が側にあるので、交通アクセスは悪くない。

 

通明殿

 

 

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昌福宮

 

 

光化門

 

別名

 

所在地

大韓民国 ソウル特別市 世宗路北

種類

 

築城者

朝鮮王朝初代国王李成桂

 

築城年

1400年頃

遺構

慶会楼、香遠亭、勤政殿など

初訪問

2000年

備考

 昌福宮は、高麗王朝の軍人李成桂が1392年に自ら実権を握り、李氏朝鮮王朝を建国して現在のソウルに都を置いた際、正宮として築かれた王宮である。

 この王朝は大日本帝国による朝鮮併合まで続いた。

 日本による併合後、景福宮に残っていた数多くの建物が取り壊された。辛うじて残された光化門と勤政殿の間には朝鮮総督府が建設され、景福宮の本来の景観は失われた。

 韓国政府は1996年に国立博物館として利用されていた朝鮮総督府を取り壊し、復元工事を進め、昌福宮を本来の姿に戻すべく努力している。

感想

キョンボックン」と読む。

 自分が行った時は映像などで観た朝鮮総督府は跡形もなく、正殿である勤政殿の復元工事が進められていた。

 かなり広く、様々な建物が見られた(多くは復元と思われる)。

 勤政殿辺りなど、一部は無料で歩き回れるが、奥の慶会楼や香遠亭を見るには700ウォンの入場料が必要。

 券売窓口辺りには土産物売り場などがあり、まさに観光施設、といった感じ。

 地下鉄駅が側にあるので、交通アクセスは悪くない。

 ここの北に韓国大統領府「青瓦台」がある。軍事政権が長年続いた韓国では、青瓦台の位置はつい最近まで極秘とされ、地図にも載っていなかった。韓国人のガイドさんも青瓦台がどこにあるか知ったのは最近だ、と言っていた。凄い国である。

 

慶会楼

 

 

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慶熙宮

 

興化門

 

別名

 

所在地

大韓民国 ソウル特別市 セムナンキル通り

種類

 

築城者

朝鮮王朝第15代国王光海君?

築城年

1600年頃

遺構

 

初訪問

2000年

備考

 ソウル市内の「五宮」の一つ。

 他の宮殿は観光地化が進んでいるが、ここは中心部から離れている為か、ガイドブックでも大々的に載っていない。しかし、ガイドブックで述べられていた以上に整備されていた。

感想

 ソウルの「五宮」の内、徳寿宮、昌徳宮、昌慶宮、そして昌福宮は地下鉄駅が側にあり、交通アクセスが良かったが、ここは側に地下鉄駅が側になかった為、昌福宮から2キロ近くの道を歩くしかなかった。

 途中、足を失った物乞いらしき老人がカンパを求めていた。ちょっとショックを受けたのを覚えている。

 ガイドブックでは何も残っていないとなっていたが、その後復元工事が行われたらしく、門や正殿が見られた。

 入場は無料。

 

崇政殿

 

 

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FORT YORK

 

Fort York入り口付近

後方にそびえているのが自立型建築としては世界最高(553メートル)のCNタワー

 

別名

OLD FORT YORK、ヨーク砦

所在地

Toronto, Ontairo, Canada. Ontario Placeの近く

種類

近代式砦

築城者

John Graves Simcoe

築城年

1793年

遺構

Brick Barracks, Mess, Blue Barracks, Blockhouse, Stone Magazine

初訪問

2004年

備考

 現在のオンタリオ州となるUpper Canadaの総督John Graves Simcoeが、現在の場所に駐屯地を築いたのがFort Yorkの始まり。Fort Yorkは、現在カナダ最大の都市で、オンタリオ州都でもあるトロント市の始まりでもあった。この当時は、米英の関係は悪くなかったので(Upper Canadaはイギリス領)、駐屯地の規模は大きくなく、この時期の遺構は殆ど残っていないとされる。が、19世紀になると米英の関係は悪化。1811年、Isaac Brock少将はFort Yorkを強化し、現在残るFort Yorkの基礎を築いた。1812年、米国はイギリスに宣戦布告(War of 1812)。カナダを侵略した。1813年、米軍はFort Yorkとトロント市(当時はYork市)を攻略。圧倒的な兵力で陥落させた。しかし、イギリスも反撃。1814年には米国首都ワシントンを陥落させ、大統領府ホワイトハウスに被害を与える(ちなみに、現在のホワイトハウスが白いのは、この時の被害を覆い隠す為に白く塗ったから、とされる)。1815年、戦争は終了。米国は結局カナダを併合させることはできなかった。Fort Yorkはその後もカナダ軍の基地として使われていたが、1934年に歴史博物館となって、現在に至る。現在、Fort Yorkは陸地に囲まれているが、当時は南側はオンタリオ湖に面していた。100年ほどの間に数百メートル埋め立てられたことになる。

感想

 ガイドブックでは、現在は何も残っていない、と記されているので、全く何もない公園を思い浮かべていた。が、実際に行ってみると、かなり修復・整備されており、見所が予想以上に多かった。敷地内の建物は博物館となっていて、小銃や、大砲や、制服が展示されている。当時の連隊の射撃模様を実演するなど、かなり力を入れている。

 

  

入り口にある1815 Brick Barracks。100人の兵がここで生活した。

砦を囲む城壁内部

 

  

連隊による射撃の実演。音と煙が凄かった

食堂の様子

 

Blockhouse。160人の兵がここで生活した。

 

 

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CASA LOMA

 

この位置から観ると欧州の城としか思えない

 

別名

カサ・ローマ

所在地

Toronto, Ontario, Canada

種類

欧州式城館型邸宅

築城者

Sir Henry Mill Pellatt

築城年

1911年

遺構

 

初訪問

2004年

備考

 これは城ではなく、大富豪の邸宅。城好きだった大富豪が、トロント市を見渡す場所に城のような邸宅を建てたい、という夢を実現する為に、多額の資金を投じて建設した。建設は1911年に始まり、完成まで3年かかった。当時の額で350万ドルの費用をかけたという。現在でいうと数億ドル、日本円で数百億だろう。ただ、この邸宅建設にあまりに金をかけてしまった為、財政難に陥り、完成から10年も経たない内に手放す羽目に。その後ホテルとなるが、成功せず、取り壊しの話が出るくらいだったが、最終的にはトロント市が買収。現在は観光名所となっている。Casaはスペイン語とイタリア語で「家」を意味する。日本語で表記するとカサ・ローマになるので、イタリアのローマに何か関係しているのか、と思われがちだが、英語表記だと無関係なのが分かる。

感想

 外は欧州風の城そのものだが、中はかなりモダン。当時としては珍しかった水洗トイレや、バスなどが完備されていた。結婚式場としても利用されるらしく、自分が訪ねた時は式場の準備がなされていた。

 

  

二階から一階を望む

Norman TowerからScottish Towerを望む

 

  

南側

入り口の北側

 

 

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