巽櫓、二重橋辺り |
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別名 |
千代田城 |
所在地 |
東京都千代田区、中央区、港区、新宿区、台東区 |
種類 |
平城 |
種類 |
太田道灌 |
築城年 |
1457年 |
遺構 |
郭、天守跡、水濠、城門、橋、石垣 |
初訪問 |
1999年 |
備考 |
江戸城を最初に築いたのは太田道灌だが、それ以前に現在の江戸城がある地に城がなかった訳ではなく、小規模な館などは平安時代末期からあったらしい。 太田道灌の死後、江戸城は北条家のものになった。が、歴史上にはめぼしい役割を果たすことなく、戦国時代を過ごした。 江戸城が再び脚光を浴びるようになるのは、1590年に徳川家康が入城してからである。当時は関東地方も田舎で、江戸城も貧弱な城だった。板葺き屋根の建物は雨漏りが激しかったそうだ。 家康は力を付けると共に城を拡大し、江戸城は関東一、更に日本一の城郭となった。工事は第二代将軍秀忠、第三代将軍家光に引き継がれ、完成したのは1650年頃だった。 しかし、江戸城が完成した姿を保った期間は短く、1657年の明暦の大火で天守は焼失し、以後城の大部分は再建されないまま幕末を迎えた。 |
感想 |
現在は皇居と称されるのが一般的だが、自分みたいな城マニアには、「江戸城」の方が通じる。 写真では飽きるほど見ていたが、やはり実物は違う。実際に行ってみて感じたのは、何もかも「でかい!」「広い!」ことだった。江戸城本丸だけで下手な城の内郭がすっぽりと収まってしまう、というのも納得できた。自分が行った時、曜日の関係で城内には入れなかった。周辺を歩き回っただけ。皇宮警察の者がうじゃうじゃいたのが印象に残った。さすが皇居。 2004年に再訪。月曜日だったので、本丸に入れなかった。しょうがないので翌日行ったら入れた。本丸はとにかく広く、完成当時はここが建物で隙間なく埋まっていた、というのが信じられない。 英語版はこちら。 |
平川門、巽櫓 |
石神井公園 |
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別名 |
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所在地 |
東京都練馬区石神井1丁目(氷川神社、石神井公園) |
種類 |
平山城 |
築城者 |
豊島氏 |
築城年 |
鎌倉時代後期 |
遺構 |
土塁、空掘 |
初訪問 |
2001年 |
備考 |
石神井城は、平安時代末期から室町時代まで一帯を支配していた豊島氏の居城の一つだった。 1476年に、関東管領家執事職を巡る「長尾景春の乱」が勃発した。石神井城と練馬城の城主豊島泰経と弟の泰明(平塚城主)は、景春に与した為、鎮圧軍の大将太田道灌(江戸城の築城者)に攻められることになった。 この乱で、豊島氏は敗戦を次々記し、石神井城も落城した。 豊島氏はこの地を追われたのである。 これにより、現在の23区全域、太田道灌が支配することとなった。 |
感想 |
江戸城を訪れたついでに行った城。他に練馬城や、平塚城にも行った。いずれも豊島氏の城だった。 練馬城と平塚城ははっきり言って見所がなかったが(練馬城は現在遊園地の豊島園がある場所)。石神井城は全体が公園として整備されていて(自分が行った時は子供祭りが開催されていた)、元は城跡であることがはっきりと分かるようになっていた。 市民公園なので、入場は無料。 |
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別名 |
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所在地 |
広島県三次市三次町尾関山公園 |
種類 |
山城 |
築城者 |
福島氏 |
築城年 |
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遺構 |
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初訪問 |
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備考 |
尾関山城は福島氏が関ヶ原後に三次の城として改修し、比熊山城から移り住んだ。 |
感想 |
城があった山は現在公園として整備されている。展望台があり、三次市内を一望出来るようになっている。 園内には山に城があったことを示すものは何もない。 公園入り口付近の案内板で、辛うじて城があった事が分かる。 |
比熊山。鳳源寺本殿 |
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別名 |
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所在地 |
広島県三次市三次町 |
種類 |
山城 |
築城者 |
三吉氏 |
築城年 |
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遺構 |
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初訪問 |
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備考 |
福島氏が尾関山に移るまで居城としていた城。 麓に鳳源寺があり、そこには浅野長治の像がある。 |
感想 |
山頂まで登る道があるようだが、その道は鮮明でなく、分かり難い。 |
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別名 |
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所在地 |
広島県庄原市西城町 |
種類 |
山城 |
築城者 |
山内氏 |
築城年 |
天文2年 |
遺構 |
本丸、二の丸 |
初訪問 |
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備考 |
大富山城は、天文2年に宮氏7代目の高盛が築城。 本丸を大富山に置き、二の丸を入り江川を挟んだ明神山に置く、比較的規模の大きな城となった。 この城は、東の東城に対し西城と呼ばれた。このことから、町名も西城となったという。 |
感想 |
西城町中心街へ向かう国道183号線を北上する途中で、西城小学校方面へ向かう道に行き着く。その角を曲がって西城小学校へ向かうと、途中に線路の下を潜る。その横に城への入り口が。 山頂まで徒歩で40分となっている。 |
清明台。清明台と濠。富士見櫓 |
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別名 |
唐糸城、亀ヶ城 |
所在地 |
栃木県宇都宮市 |
種類 |
平城 |
築城者 |
宇都宮宗円 |
築城年 |
1063年 |
遺構 |
土塁の一部 |
初訪問 |
2010年7月 |
備考 |
宇都宮城の歴史は古く、平安時代に藤原宗円(宇都宮氏の祖)が二荒山の南に居館を構えたのが初めとされる。宇都宮市は鎌倉時代から室町時代・安土桃山時代まで530年におよび国司・守護・関東八屋形に列せられ、一帯を支配した。 しかし、宇都宮氏は1597年に改易となり、代わりに蒲生氏、そして奥平氏が入城した。 1619年、徳川家康の懐刀と言われた本多正純が15万5千石で宇都宮に入り、宇都宮城と城下の改修を行った。縄張りを拡張して新たな郭を設け、本丸など城郭周囲を掘削し、湧水を張って水濠とし、掘削で生じた土を高く盛り上げて土塁とした。また、城下町の整備も積極的に行った。 その結果、宇都宮城下は城下町、門前町、宿場町の各機能を持つ都市に再編された。 正純は幕府の意向に順じ宇都宮城に天守は設けず、2層2階の清明台櫓を天守の代わりとした。 しかし、あまりの大改修に正純謀反の噂が流布されてしまい、1622年には改易された(ライバルに蹴落とされた、というのが実情の様である)。 その後、城主は奥平氏、奥平松平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏と譜代大名が城主としてこまめに入れ替わった。江戸時代後期に戸田氏が入り、幕末を迎える。 1868年5月、宇都宮は戊辰戦争の戦地となり、宇都宮城の建造物は焼失した。 |
感想 |
宇都宮城は、本丸が公園として徐々に整備されつつあるものの、地元の者が相変わらず「見るべき物がない」と揶揄する状態にある。 公園として整備されている本丸も、郭全体が残っている訳ではなく、市街地と一体化。本丸東部の堀の一部が保存され、それに沿った土塁に櫓2棟が復元され、辛うじて城と分かる。 |
修復中の本丸御殿。中の門堀跡 |
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別名 |
初雁城、霧隠城 |
所在地 |
埼玉県川越市郭町 |
種類 |
平山城 |
築城者 |
太田道真、道灌父子 |
築城年 |
1457年 |
遺構 |
土塁の一部、本丸御殿 |
初訪問 |
2010年7月 |
備考 |
川越城は、1457年に太田道真、道灌父子によって、江戸城と共に築かれた(この時の城は、一般的には河越城と称され、近世の城と区別されている)。 その後、北条氏が関東一帯を支配する様になると、河越城は北条氏の武蔵国支配の拠点となる。 1590年、豊臣秀吉によって北条氏が関東から追放されると、河越城は北条氏の代わりに関東に入った徳川家康家臣酒井重忠が1万石をもって入城。 その後、城主は酒井家、堀田家、大河内松平家、柳沢家、秋元家、越前松平家、松井松平家と目まぐるしく推移。 1653年に、大河内松平家松平信綱により、拡張工事がなされ、倍の規模の近代的城郭になった。本丸、二の丸、三の丸や八幡曲輪、外曲輪、田曲輪、新曲輪などの曲輪、本丸の富士見櫓と菱櫓、二の丸の二重の虎櫓という4つの櫓、西大手、南天手など13の門から成り、土塁・水堀を張り巡らした総面積は約32万6000平方メートルにもなった。 天守閣はなく、宇都宮城の清明台櫓と同様に城の中で一番高い所にあった富士見櫓が天守閣の代わりをしていた。 1848年越前松平家松平斉典により、本丸御殿の造営が行われる。二の丸にあった御殿が焼失したままになっており再建したもので、これが現存する御殿である。 |
感想 |
川越城は、本丸御殿が残る数少ない城として名高いが、それ以外の部分は市街地化され、その面影は殆ど残っていない。 最近になってようやく中の門堀跡が整備された。 自分が訪れた時は本丸御殿が修復中で、最大の見所である御殿すらまともに拝見出来なかった。 |
復元された角櫓。跳ね出し石垣のアップ。SL人吉号 |
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別名 |
繊月城、三日月城 |
所在地 |
熊本県人吉市麓町 |
種類 |
平山城 |
築城者 |
相良長毎(ナガツネ) |
築城年 |
1593年 |
遺構 |
本丸、二の丸、三の丸、石垣、土塁 |
初訪問 |
2011年4月 |
備考 |
人吉城は、大きく分けて、相良氏によって鎌倉時代に築かれたもの(現在原城(ハラジョウ)と称されている城跡)と、同じく相良氏によってその近くに築かれた近世の人吉城がある。 近世人吉城の築城は、相良氏20代当主の長毎が1593年に着手したとされる。 鎌倉時代からの人吉城は山城だったが、近世人吉城は球磨川沿いの若干低い山に築かれ、平山城となった。 城は本丸、二の丸、三の丸から成るが、天守は築かれないまま完成。21代目依頼寛(ヨリヒロ)の時代になっていた。 相良氏は、徳川政権下で幾つかの危機に直面しながらも、どうにか乗り切り、幕末まで人吉を治めた。鎌倉時代から幕末まで、35代650年という長期にわたる支配だった。 |
感想 |
城は、JR人吉駅から駅前通りを500メートル程真っ直ぐ進み、球磨川を渡ると石垣が望める。 奥に上がればより高くなる階段状の縄張りとなっている。 現存建築はないが、石垣や曲輪(本丸・二の丸・三の丸)はよく整備されている。特に、二の丸・三の丸の間の石垣は見事。 三の丸の西側にある武家屋敷跡(現在は人吉市役所の敷地や広場になっている)を囲む様に、多聞櫓と角櫓が復元されていて、それを結ぶ塀も復元されている。 球磨川に面する北側の水手門跡辺りの石垣は、石垣の最上部が大きく張り出した、西洋の城でよく見られる形状になっている。こうしたいわゆる「跳ね出し石垣」は、日本の城では他に西洋式城郭五稜郭(函館)くらいしか例がない。 原城は、現在の人吉城の直ぐ南東に位置する。 |
復元された多聞櫓。復元された角櫓、多聞櫓 球磨川沿いの水手門。三の丸から見た二の丸への入り口(中の御門跡) 三の丸から見た二の丸の石垣。二の丸(奥に本丸への石段が) 本丸。二の丸北西の門跡 二の丸北西の門跡から見た中の御門跡。御下門跡の石垣 跳ね出し石垣 |
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別名 |
繊月城、三日月城 |
所在地 |
熊本県人吉市麓町 |
種類 |
山城 |
築城者 |
相良長頼 |
築城年 |
1198年 |
遺構 |
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初訪問 |
2011年4月 |
備考 |
近世人吉城が築かれるまでは、人吉における城は、現在原城と呼ばれる山城だった。 平安時代末、原城は平氏の代官矢瀬主馬祐が城主だった。 1205年、源頼朝の命で遠江国相良荘国人の相良長頼は元久2年(1205年)肥後国人吉荘の地頭に任ぜられる。 平氏の主馬佑は、当然ながらこれに反抗。長頼は、鵜狩りと称して主馬佑を誘き寄せ謀殺。矢瀬氏を滅ぼし、原城に入城。ここから、相良氏35代650年に及ぶ人吉統治が始まる。 原城は、近世人吉城をも上回る規模の大城郭だったが、山城は時代と共に不便になり、20代当主長毎は豊後の石工を招き、それまで婦女子が生活する地区だった「内城」の整備を進める。これが近世人吉城である。 近世人吉城が完成した後も、原城は即廃城にされた訳ではないらしく、人吉城の南方の守りとして維持されていた様である。 |
感想 |
現在一般的に人吉城と呼ばれている近世の城の南東にある山々が中世人吉城(原城)に当たる。上原城・中原城・下原城の3城から成る壮大な城である。 多少の整備はなされているものの、近世城郭程ではなく、行く人も少ない。 山道を上がる事になるので、装備はそれなりに準備しておいた方が良い。 |
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別名 |
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所在地 |
熊本県宇土市古城町 |
種類 |
平山城 |
築城者 |
小西行長 |
築城年 |
1589年 |
遺構 |
曲輪、石垣、堀 |
初訪問 |
2011年4月30日 |
備考 |
近世宇土城は小西行長によって1588年に築かれた。 三重の天守を中心に本丸、二の丸、三の丸から成り、東西500メートル、南北500メートル、面積20万平方メートルにも及ぶ城郭だった。 しかし、行長は関が原の戦いで西軍に属し、処刑される。 その時点で宇土城は行長の弟である行景が預かっていて、当初は徹底抗戦に出ていたが、兄の処刑を知ると城を明け渡す。 その後、宇土一帯は肥後の加藤清正の領土となる。 宇土城は清正の隠居城として整備されるが、清正は1611年に急死。 翌年、宇土城は幕府の命令により破却される。 それでも石垣等は残されていたらしいが、島原の乱の後には徹底的に破壊され、原型を全く留めなくなった。 1646年、細川行孝が3万石を分知され宇土藩を設けた。行孝は、破却された宇土城に陣屋を構えた。以後、宇土細川家が11代続き明治を迎えた。 築城から破却まで20年余りと短かった為か、市民には当城の500メートル程南西にある中世の宇土城こそ「宇土の城」として認識している様である。 |
感想 |
宇土市には、宇土城と呼ばれる城が2ヵ所ある。中世のと、後に築かれた近世のである。 通常は新しい方がよく認識されている場合が多いが、宇土城に限っては中世の方が国指定史跡に指定されている事もあり、馴染み深いらしい。 近世宇土城は、宇土高校の南西に位置するので、高校をまず目指すと見付け易い。 城内(本丸跡)はだだっ広いだけの公園(宇土城山公園)として整備されているだけで(奥に小西行長の像が立てられている)、城らしさはあまりないが、周辺を歩くと石垣が部分的に残っていて、ここが城であったのが分かる。 二の丸は、現在墓地になっている(その名も「二の丸墓地」)。 宇土高校から近世宇土城へ通じる車道をそのまま進むと、中世宇土城のある西岡台へと続く。 初訪問の際は天候が優れず、小雨が降る中で撮影した。 |
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竪堀跡。千畳敷跡から望む近世宇土城(中央の森) |
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別名 |
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所在地 |
熊本県宇土市神馬町 |
種類 |
山城 |
築城者 |
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築城年 |
1048年 |
遺構 |
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初訪問 |
2011年4月 |
備考 |
中世宇土城は、通称「西岡台」と呼ばれる標高39メートルの丘にある。 言い伝えでは、1048年に築かれたとなっている。 中央の迫地を挟んで東に主郭となる千畳敷(せんじょうじき)、西に三城(さんのじょう)の曲輪から成る連郭式城郭である。東の千畳敷の周囲は横堀で囲まれており、北から東にかけての斜面には複数の竪堀があった。 築城から室町時代までは肥後国守護の菊池氏が代々城主だった。が、室町時代に入ると、守護職押領を企てた宇土為光に奪われてしまう。 が、為光による支配は長く続かず、菊池氏による反撃に合い、為光は殺される。 その後、菊池氏の家臣城為冬が入城するが、城氏は後に断絶。空城となってしまう。1504年に、為光の娘婿である名和顕忠が入った。 名和氏は80年にわたって宇土城主となるが、豊臣秀吉によって征伐され、名和氏の時代は終わる。 宇土には豊臣の家臣小西行長が入るが、西岡台の直ぐ側に新たな宇土城(近世宇土城)を築いた為、西岡台は廃城となった。 |
感想 |
宇土市には、宇土城と呼ばれる城が2ヵ所ある。中世のと、後に築かれた近世のである。 通常は新しい方がよく認識されている場合が多いが、宇土城に限っては中世の方が国指定史跡に指定されている事もあり、馴染み深いらしい。 中世宇土城は近世宇土城の南東に位置する小高い丘にある。 宇土高校近くの近世宇土城にまで行けば、道路標識もある事から、問題なく行き着ける。 中世宇土城は史跡として、公園として整備されている。城までの車道もきちんと整備され、「整備され過ぎでは?」と思ってしまう程。 柵や門(虎口)が一部復元され(中世の城なので天守建築は勿論、高石垣もない)、当時の様子を僅かながらもしのばせる。 千畳敷内は、発掘調査で発見された建物跡の位置が把握出来る様になっている。何の建物だったのか解明するまでには至らなかったらしく、それぞれの建物跡には番号が振り分けられている。 初訪問の時は天候が優れず、訪れた直後に大雨に見舞われた。 |
近世宇土城付近から望む中世宇土城。竪堀跡 復元された虎口。虎口横の堀と土塁 千畳敷跡内部から見た虎口。千畳敷内 千畳敷内。案内図 |
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別名 |
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所在地 |
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種類 |
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築城者 |
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築城年 |
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遺構 |
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初訪問 |
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備考 |
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感想 |
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別名 |
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所在地 |
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種類 |
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築城者 |
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築城年 |
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遺構 |
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初訪問 |
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備考 |
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感想 |
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