津村巧の

城巡り

TAKUMI TSUMURA'S

CASTLE GUIDE

 

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007

 

姫路城

明石城

赤穂城

龍野城

三木城

船上城

大和郡山城

和歌山城

 

 

 

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姫路城

 

 

別名

白鷺城(シラサギ)

所在地

670 兵庫県姫路市本町68

種類

平山城

築城者

池田輝政

築城年

1601年

遺構

備前丸、西の丸、三の丸、石塁、内堀、木造5層6階地下1階天守(国宝)、小天守、重要文化財櫓多数

初訪問

1994年(2009年9月、2013年10月等)

備考

 現在の姫路に城を築いたのは昔から多くいたが(1333年に赤松氏が姫山に城を築いたのが最初と伝えられている)、現在の城は池田輝政が1601年に徳川家康に命じられて築いたものである。その前には1580年に豊臣秀吉が築いた三層天守の城があった。

 豊臣時代の姫路城の規模や外観はあまり知られていない。これは豊臣大坂城にも言える。

 豊臣時代の姫路城は名将黒田如水が縄張りしたとされている。現在の姫路城も如水の縄張りをそのまま使っている部分が多いらしい(特に本丸辺り)。

 輝政は52万石の居城としてふさわしく(後には87万石、その他の領地を合わせて100万石近くになった)姫路城を改築したが、1617年に池田氏は鳥取や岡山に移され、姫路城主は本多、松平、榊原、酒井など、15万石程度の大名の城となっている。なんだか勿体ない。

 姫路城は難攻不落の城として設計された(易功有落の城なんかないと思うが)。しかし、戦に使われることなく明治を迎えた。その後、三の丸に兵舎などが建てられた為、東端にあった出丸は潰され、三の丸の建物全てが取り壊された。現在、三の丸に広大な広場があるのはこの為だ。姫路城は一般的に多くの建造物が残っていると言われているが、それは現在の視点からで、幕末と比べると何分の一にしか過ぎない(幕末の姫路城を描いた看板が菱の門を潜った後にある)。

感想

 特に説明する必要もないほど有名な城。日本は勿論、世界を代表する城郭建築の一つ。世界文化遺産にも登録されている。天守群がメインアトラクションだが、他にも西の丸の渡櫓など、見所が多い。

 姫路城は姫路駅から500メートルほど離れているが、行くのに困難しない。駅を出た時点で天守が望めるからだ。また、城の周辺には高層ビルが建っていないことから、かなり遠くからでも城を展望できる。

 三の丸までは無料で入れる。それ以降は入場料を支払わなければならない。最初行った時は500円だったが、今は600円に値上げされている。

 また、姫路市内には他に御着城や英賀城がある。

 英語版はこちら

 

全貌

 

2009年

 

  

 

  

 

   

 

2013年

 

  

大手門付近の水濠。修復中の大天守。リの一渡櫓

 

  

大手門付近の水濠。三の丸から望む修復中の大天守と西の丸櫓群

 

  

リの一渡櫓。三の丸に移設された大天守礎石

 

 

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明石城

 

  

坤櫓。巽櫓。手前に巽櫓、奥に坤櫓

 

別名

喜春城、錦江城

所在地

兵庫県明石市明石公園

種類

丘城

築城者

小笠原忠真

築城年

1617年

遺構

本丸、石塁、現存櫓(五層天守が予定されていた)

初訪問

19969月(200111月、200411月、200411月、201310月再訪)

備考

 明石城は、信濃の松本から入部した小笠原忠真によって1617年に築かれた。幕府の命令で新城を築いたのである。この為、築城費用の一部は幕府が負担した。

 5層天守が計画されたが、結局建てられなかった。

 明石城の縄張りは、西から本丸、二の丸、三の丸(東の丸)と、曲輪が串団子状に連なるものだった。

 この城は縁起がよいとされている。歴代城主は加増されて明石藩主になるか、加増されて移転されることが多かったからである。初代藩主の小笠原氏は10万石だったが、移転の際、5万石加増された。城主はそれから松平氏、大久保氏、越前大野松平氏と変わったが、いずれも1万石から2万石加増されて入城している。

 現在は公園となっていて、三層櫓二基の他に濠や、天守台が残っている。

感想

 初めて行った時は阪神淡路大震災直後で、櫓が修復中で、見られなかった。現在(2004年)は修復が完了している。

 JR明石駅に近く、新幹線のホームから城が一望できる。

 入場は無料。ただ、櫓には入れないようである。

 明石市には、他に船上城がある。

 

 2013年に訪れた時は、お城祭が開催されていて、櫓が公開されていた。

 

2004年

 

隅櫓と白壁

 

2013年

 

  

巽櫓。坤櫓(南西から)。坤櫓(南から)(石垣がかなり高い)

 

  

坤櫓(南東から)。巽櫓(南東から)。坤櫓(本丸内から)

 

  

水濠。巽櫓

 

  

坤櫓

 

  

巽櫓(手前)と坤櫓。東の丸の石垣(外側)

 

  

東の丸(中側)。本丸

 

  

巽櫓内部

 

  

桜堀。桜堀から望む本丸石垣北面

 

  

本丸石垣北面。JR明石駅から望む坤櫓と巽櫓(架線が邪魔)

 

 

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赤穂城

 

  

追手門隅櫓。本丸門。天守台

 

別名

加里屋城

所在地

兵庫県赤穂市上坂屋

種類

平城

築城者

松平政綱

築城年

 

遺構

本丸、石塁、濠、復元天守台、復元櫓、復元門

初訪問

1996年(2013年10月)

備考

 赤穂が近代城下として整備されたのは、池田輝政の五男松平政綱が、3万5000石で入封してからである。政綱は御殿を築き、後に弟の輝興が櫓などを築いた。

 しかし、輝興は妻や侍女を殺害したという事で失脚し、代わりに浅野長道が5万5000石で入城する。城下は一層整備された。

 浅野家入封から57年後、忠臣蔵のきっかけとなる事件で浅野家は断絶となる。その後、永井氏、森氏が入城し、明治まで続いた。

 11代続いた森氏は2万石の小大名で、城の整備に回す資金はなかったらしい。明治以前に荒れ果てていたという。

 つい最近まで本丸には県立赤穂高校があったが、史跡に指定されてから移転され、整備が進んでいる。二の丸、三の丸も徐々に整備される予定だそうである。

感想

 自分が持っていた本では、赤穂城は現在高校の敷地となっている、と記されていたので、本丸が整備されている(天守台や本丸御殿跡)のを見てびっくりした。よいことである。

 ただ、自分が行った時点で整備されていたのは本丸だけ。大手門を潜って城内に入っても、暫くは普通の市街地となっていた。

 本丸への入場は無料。

 

 2013年に訪れたところ、本丸の整備はますます進められ、その外の二の丸や三の丸も整備が進行中だった。

 一応の完成を見るのは、まだまだ先の話だろうが。

 

1996年

 

大手門と隅櫓

 

2013年

 

  

追手門近くの隅櫓。本丸門

 

  

本丸門と水濠。本丸門櫓。本丸

 

  

庭園と天守台。厩口門。厩口門付近の本丸石垣

 

  

本丸石垣と厩口門。本丸南東隅櫓石垣。二の丸石垣(手前の芝生は、元は水濠だったと思われる)

 

  

追手門付近の隅櫓

 

  

追手門と隅櫓。近藤源八宅長屋門

 

  

近藤源八宅長屋門。長屋門内部

 

  

長屋門内部。大石邸長屋門(非公開)

 

  

大石邸長屋門。本丸と二の丸を隔てる水濠

 

  

大石頼母助屋敷門(復元)。本丸門と水濠

 

  

本丸門(復元)。本丸門の櫓門

 

  

本丸側から見た櫓門。本丸全貌

 

  

櫓門内部。本丸庭園と天守台

 

  

天守台。本丸側から見た厩口門

 

  

厩口門。厩口門付近の本丸石垣

 

  

厩口門と本丸石垣。本丸石垣

 

  

隅櫓石垣

 

  

休憩所となっている米櫓(復元)。二の丸石垣

 

 

 

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龍野城

 

復元隅櫓

 

別名

 

所在地

兵庫県龍野市龍野町

種類

平山城

築城者

石川光元

築城年

1600

遺構

本丸

初訪問

2002年

備考

 龍野城は本来は鶏龍山にあったが、江戸時代に石川氏によって山麓に移された。

 山麓の龍野城は1871年の廃藩置県まで使われた。

 本丸御殿や隅櫓が復元されている。

感想

 龍野城に最も近いJR駅は「龍野」ではなく「本竜野」。「龍野」は別の路線上にある。

 城は龍野駅から川を渡ったところにあり、近いとは言えない。

 残っているのは本丸だけ。側に歴史博物館がある。

 現在の龍野城は、小高い山の麓にある。山は以前の龍野城があった場所。龍野城は二つあったことになる。

 本丸は無料で入れる。

 

  

復元本丸御殿

 

 

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三木城

 

公園となっている城址。石碑が建てられている

 

別名

釜山城、別所城

所在地

兵庫県三木市上の丸町

種類

丘城

築城者

別所則治

築城年

15世紀後半

遺構

土塁、堀、天守台

初訪問

2004年

備考

 三木城は15世紀後半に別所則治によって築かれた。以後、別所氏が代々城主となる。

 1538-1539年には尼子氏、1544年には三好氏や有馬氏に攻められたが、落城せず、難攻不落の城として知られるようになる。

 織田信長の中国攻めの大将羽柴秀吉を敵に回した三木城5代城主別所長治は、三木城に立てこもり、1578年から1年8ヶ月にわたって抵抗を続けた。が、兵糧攻め(「播州三木の干殺し」と呼ばれるようになる)によって敗北を余儀なくされる。

 開城の条件として、長治は自分と一族の命を引き換えに城兵の助命、領民の安堵を願い立てた。秀吉はこの条件を受け入れる。別所氏は長い歴史を誇る名門一族だったが、長治の代で終わった。

 この時、長治は弱冠23歳。

 その後、三木城城主は羽柴秀吉、松原氏、中川氏と次々と入れ替わる。

 江戸時代になって、一国一令により廃城。

 三木城の資材は明石城に転用される。

感想

 三木城は、神戸電鉄三木上の丸駅の直ぐ側にある(三宮駅から1時間程度)。

 駅を出た直後に三木城への道しるべが見付かったので、行くのは困難でなかった。丘城という以上、石段、もしくは坂道を登る必要があるが、高さにして30メートル程度なので、問題ではない筈である。

 城址は一部が公園となっているが、他は神社、保育園、図書館、美術館などが建ち並び、「城」として整備されているとは言い難い。

 ただ、城址であることを示す表示や説明板があるので、歴史をしのぶことは充分に可能である。

 この城を初訪問した日は、他に明石城と船上城にも行った。

 

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船上城

 

田んぼの向こうにある丘らしいのが城址らしいが、近付けなかった

 

別名

 

所在地

兵庫県明石市船上宇古城

種類

平城、水城

築城者

高山右近

築城年

1586年

遺構

本丸跡、土塁

初訪問

2004年

備考

 船上城は、キリシタン大名高山右近が1586年に築いたとされる。

 明石川河口の湿地帯に築かれた水城だった。

感想

 名城事典で見付け、ネットの地図で調べたら、城址の位置がきちんと記載されていた。明石城から1キロほどと、そう遠くないので行ってみることに。この数時間前に三木城を訪ねていたが、そちらはそれなりに満足できるものだったのでこちらも同程度なのでは、と期待していたが、裏切られた。

 一帯は住宅地となっていて、城址は保存されてはいるようだったが、なぜか近付けるようになっておらず、小川に隔てられた側の公園から望む他なかった。

 

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大和郡山城

 

  

追手向櫓と追手門。追手向櫓。追手門

 

別名

 

所在地

奈良県大和郡山市城内町

種類

平城

築城者

筒井順慶

築城年

1577

遺構

石垣、濠

初訪問

1998年(2014年再訪)

備考

 大和郡山城というと豊臣秀吉の弟秀長の居城として名高いが、現在残っている郡山城の石垣などは秀長の死後入城した水野氏や、本多氏や、松平氏によって築かれたものらしい。

 また、郡山城を最初に築いたのも秀長ではなく、戦国時代中頃から筒井氏の支城が置かれていた。筒井氏の本城となったのは1577年からで、当主の筒井順慶はこの時点で城を大改修した。

 郡山城は順慶の跡を継いだ定次の居城となったが、秀吉の命で伊賀上野に転封され、代わりに紀伊・大和・和泉100万石の太守に任ぜられた豊臣秀長が入城した。

感想

 郡山駅は二つある。JRのと、近鉄のだ。近鉄郡山駅の方が郡山城に近い(奈良から郡山に移動する際、列車が郡山城の側を通過し、「ここで下ろしてくれ!」と思った程)。

 城内には濠や石垣が残っていて、櫓らしき建築が再現されているので、城っぽく見えなくもないが、城として整備されている、という実感は湧かない。

 神社の敷地となっている事もあり、本丸へは無料で入れる。

 

追記:

 2014年に再訪したところ、天守台周辺で工事が実施されていて(修復工事?)、天守台に近付けなかった。

 

1998年

 

  

復元隅櫓。

 

2014年

 

  

追手門(城内から)。本丸石垣と天守台。本丸から望む天守台(工事中)

 

  

追手向櫓と追手門。追手門

 

  

追手門(城内から)。本丸石垣

 

  

本丸石垣、天守台、濠

 

 

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和歌山城

 

復元天守

 

別名

虎伏城、竹垣城

所在地

和歌山県和歌山市一番丁

種類

平山城

築城者

豊臣秀長

築城年

1585

遺構

石垣、水濠、復元天守群

初訪問

1998

備考

 和歌山城は弟秀長の為に豊臣秀吉が建てた城である。秀吉は和歌山に1ヶ月ほど滞在して縄張りし、1585年に本丸と二の丸の工事を終えた。

 秀長は当時大和郡山城に在城していたので、和歌山には重臣桑山重晴を城代とした。

 1600年の関ヶ原の合戦後、浅野幸長が37万石で和歌山に入った。この時、天守、二の丸、三の丸などが築かれた。

 1619年、徳川頼宜が55万5000石で入り、城を更に拡大したが、あまりにも大規模な工事だった為幕府の疑惑を招き、城代家老が江戸に出向いて疑惑を解く、という事件が起こった。天下の御三家も幕府を恐れていたのだ。

 和歌山はその後数回の火災に遭い、天守や御殿などを失った。御三家の為、特別に天守再建が許可されたが、藩主が幕府に遠慮した為最初に計画された5層天守ではなく、元と同じ3層天守が再建された。

 この天守も第二次世界大戦で焼失してしまい、現在そびえる天守は1958年に外観復元したものである。

感想

 和歌山城に最も近い駅はJR和歌山駅ではなく南海和歌山市駅。それでも徒歩で15分ほど離れている。和歌山は幕末で活躍した勝海舟が一時住んでいたらしい。元住居後を示す石碑を途中見た。

 本丸は二つに分かれていて、一方(天守曲輪)には天守や櫓などが再建されているが、もう一方(本丸御殿曲輪)はなぜか給水場のタンクが置かれ、入れないようになっていた。

 天守曲輪は有料。350円。

 和歌山市には、JR和歌山駅を挟んで、もう一つ城がある。現在は来迎寺となっている太田城である。そちらは城に関する説明板があるだけで、城として整備されてはいない。

 

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