津村巧の

城巡り

TAKUMI TSUMURA'S

CASTLE GUIDE

 

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009

 

徳島城

丸亀城

讃岐高松城

伊予松山城

今治城

 

 

 

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徳島城

 

  

鷲の門。本丸石垣。本丸

 

  

石垣と濠。数奇橋と濠と石垣。庭園、博物館、城山

 

別名

渭山城(イノヤマ)、渭津城(イノツ)

所在地

徳島県徳島市城の内

種類

平山城

築城者

細川頼之

築城年

1586年

遺構

本丸、石塁、濠の一部、復興門

初訪問

1996

遺構

 徳島城は、墨俣城で有名な蜂須賀小六の長男家政が阿波の国へ入封された際、新たに築いた城である。

 海抜63メートルの山頂に本丸を築き、西側に二の丸、三の丸を築き、東側の平坦部(東二の丸)に三層天守を築いたという。

 幕末まで建物の多くが残っていたそうだが、明治初年に取り壊され、唯一残されていた鷲の門も大戦で焼失した。

 蜂須賀小六といえば幼名時代の秀吉の親分だった野武士である。その子が25万石の大名になり、しかも秀吉の恩を受けながらも関ヶ原を生き残ったのは時代を見る目があったとしかいいようがない。

 25万石の外様大名でありながら同じ地で幕末まで続いたというのも不思議である。

感想

 城祉はJR徳島駅の東にある。線路の南に沿って通る道路を進むと、陸橋があるので、それを渡れば徳島公園、すなわち徳島城である。

 徳島公園周辺はすっかり市街地化されているが、公園自体は城の縄張りを良く残している。

 徳島公園自体は無料で入れる。

 御殿があった城山の麓には御殿風の博物館があり、その隣に江戸時代に造成された庭園がある。いずれも入場は有料。

 城山に通じる山道はそれなりに整備されていて、体力さえあれば簡単に登れる。

 山頂の本丸・二の丸・三の丸の規模は大きく、これだけで一つの城郭となっている。山城と平城が一体化した、戦国時代と江戸時代の太平の世の狭間に生まれた城といえる。

 

1996年

 

復興された門

 

2011年10月

 

  

西二の丸石垣。濠と石垣

 

  

西の丸橋から望む城山。庭園の池。庭園と城山

 

  

枯池の自然石の橋。池を渡す石

 

  

城内麓のSL。蜂須賀家政像

 

  

西二の丸の石碑。バラ公園の薔薇

 

2011年10月

 

  

鷲の門

 

  

鷲の門付近の濠と石垣

 

  

徳島博物館と城山。山麓の石垣

 

  

山麓の石垣。東二の丸

 

  

東二の丸の天守跡。本丸石垣

 

  

本丸石垣と、本丸への道を振り返ったところ。本丸

 

  

本丸石垣。西二の丸石垣

 

  

西二の丸石垣

 

  

西二の丸。西二の丸から望む本丸石垣

 

  

西二の丸・帳櫓跡。帳櫓跡から望む西二の丸

 

  

帳櫓跡石垣

 

  

西二の丸石垣(帳櫓跡辺り)

 

  

三の丸は水道局の用地に。西二の丸石垣

 

  

蜂須賀家政像。城山

 

  

太鼓櫓から水濠を望む。太鼓櫓跡

 

  

濠と石垣

 

  

数奇屋橋と城山

 

  

西の丸橋から望む城山。舌石(屏風折塀の支持柱)

 

  

城内庭園

 

  

城内庭園

 

 

  

濠。貝塚

 

  

徳山城を渡す陸橋からJR徳島駅を望む。バラ公園の薔薇

 

徳島城の図。江戸時代の姿を再現

 

現在の徳島城址。寺島川が殆ど埋め立てられて線路になっている等の変化はあるが、縄張りを意外とよく残している

 

 

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丸亀城

 

天守と石垣

 

  

天守。三の丸南側から望む本丸石垣

 

 

別名

亀山城、蓬莱城

所在地

763 香川県丸亀市大手町2-3-1

種類

平山城

築城者

生駒親正

築城年

1597年

遺構

本丸、二の丸、三の丸、石塁、現存天守三層三階、門

初訪問

1995年(2011年9月と10月再訪)

備考

 丸亀城は、生駒親正が築いた。17万5000石の大名で、高松城(広島県や、岡山県のでなく、香川県にある高松城)を築いた後、1597年から支城として丸亀城を築き始めたのである。1602年に完成したが、1615年の一国一城令で廃城となった。

 1641年に移封された城を山崎家治が修築し、現在の姿になった。山崎氏が3代続いたが、3代目の治頼には子がなく、絶家。京極氏6万石が1658年入城し、7代続いた(松江城の京極氏は1代4年間しか続かなかったのと比べて長い)。

 明治時代になると、櫓や門が撤去されたが、天守だけは残った。1943年、天守は国宝に指定される。1950年の解体修理後、天守は重要文化財に指定された。大手門も後に重要文化財に指定されたが、長屋と表門は指定されていない。小冊子によると、江戸時代に建てられたものだから、充分に値すると思われるが……

感想

 丸亀城の最大の特徴は石垣である。山全体が石垣で固められている、と言ってもいい。こんな高いところによく運べたな、と来る度に感心する。

 本丸までは無料で登れる。天守に入るには100円(安い!)を支払わなければならない。

 城は丸亀駅から徒歩で10分くらいの位置にある。駅からでも望める。というか、全貌を捉えたいなら駅から望むのが一番かも知れない。

 市内には本場の讃岐うどんが食べられる店が多い。

 英語版はこちら

 

 2011年9月に再訪。

 修復工事中なのは事前に知っていたので、驚きはなかったが……。

 同じく修復工事中だった高松城を訪れた後の訪問だったので、がっかり感が大きい。

 何故同じ時期に修復するのだろうか。

 

 2011年10に再訪。

 修復工事は終わっていて、足場は取り払われていた。

 この日は曇りもしくは雨と予報されていたが、自分の楽観的な期待に応えてか、晴れてくれた。

 お陰で、良い写真が撮れた。

 

  

天守。天守と大手門

 

2011年9月撮影分

 

  

足場が組まれている天守。大手一の門の天井構造

 

  

見返り坂の石垣。三の丸南側から見た二の丸の石垣。三の丸西側から見た本丸石垣

 

三の丸井戸

 
  

三の丸北側から見た本丸石垣。二の丸から望む天守

 

三の丸井戸

 
   

天守。本丸から望む三の丸と丸亀市街。天守南面

 

  

本丸から望む三の丸井戸。本丸から望む讃岐富士。修復された三の丸石垣

 

2011年10月撮影分

 

  

丸亀城北側から見た全貌

 

  

丸亀城天守のアップ。天守と大手門

 

  

資料館近くから見た天守。三の丸から見た天守

 

  

三の丸から見た天守

 

  

本丸から見た天守。三の丸から見た天守

 

  

三の丸から見た天守

 

  

本丸から見た天守。三の丸石垣。2階への階段

 

  

天守1階。天守2階

 

   

天守3

 

   

善通寺

 

20119月撮影分

 

  

濠と修復中の天守。濠と石垣

 

  

大手一の門、二の門

 

  

城内から見た大手一の門

 

  

大手一の門内で展示されていた鯱。大手一の門内部

 

  

大手一の門の石落とし。見返り坂の石垣

 

  

復元された三の丸の石垣

 

  

復元された三の丸の石垣から望む讃岐富士。三の丸に移築された延寿閣別館

 

  

三の丸南側から見た二の丸・本丸石垣。三の丸井戸

 

  

三の丸南側から見た本丸石垣(南西面、西面)

 

  

三の丸北側から見た二の丸・本丸石垣(北西面、北面)

 

  

三の丸北側から見た二の丸石垣(北東面)。二の丸(奥に本丸石垣)

 

  

天守南面。修復中の天守

 

  

本丸から望む三の丸と丸亀市街。本丸から望む三の丸井戸

 

  

本丸から望む讃岐富士。天守南面

 

  

本丸入り口から望む二の丸。二の丸東面石垣

 

  

濠の亀と白鳥

 

二の丸

 

三の丸

 

三の丸井戸

 

天守

 

本丸

 

三の丸

 

三の丸

 

修復された石垣

 

丸亀城の図と、今回本丸まで辿ったルート

 

2011年10月撮影分

 

  

丸亀城全貌

 

  

丸亀城全貌

 

  

丸亀城全貌。資料館近くから望む天守

 

  

資料館近くから望む天守。三の丸から望む天守

 

  

天守1階天井。天守1

 

  

天守1階。天守2階

 

  

天守3階。天守3階から見た2階

 

  

天守3階天井。天守1階石落とし・狭間

 

  

三の丸から望む天守

 

  

三の丸から望む天守。善通寺内

 

 

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讃岐高松

 

天守台

 

  

月見櫓。辰巳櫓(昼間、ライトアップ)

 

別名

玉藻城

所在地

香川県高松市玉藻町

種類

平城、水城、水際城

築城者

生駒親正

築城年

1588年

遺構

本丸、二の丸、濠、石塁、天守台、現存櫓

初訪問

1996年(2011年9月再訪)

備考

 1587年、天下統一を果たした豊臣秀吉は、生駒親正に讃岐の国を与えた。親正は、当初は引田城へ入城したが、東讃岐に寄り過ぎていたので、聖通寺城に移った。

 聖通寺城は国のほぼ中間にあるという条件は満たしていたものの、山城だった為に不便だった。そこで、親正は新たに城を築くことにした。

 城地として選ばれたのが玉藻浦と呼ばれた寒村である。縄張りを担当した藤堂高虎も、理想の城地と絶賛した。

 築城工事は1588年に開始し、3年かかって完成した。

 徳川と豊臣の対立では、秀吉の子飼い大名として大いに悩んだに違いない。関ヶ原の合戦では、子を徳川側につかせ、自分は豊臣側につき、どちらが負けても子孫は守れるという戦法を取った。

 この奇策により、断絶は免れたものの、幕府の監視の目から完全に逃げ切れなかったらしく、親正の死後、生駒家は「生駒騒動」によって転封される。17万石から1万石へ減らされて。

 高松城はその後親藩の居城となり、明治にまで至った。

 櫓は約20も建てられたが、残っているのは3棟だけで、どれも重要文化財である。

別名

 高松城は高松駅から徒歩で2、3分の位置にある。この2、3分も信号機に阻まれるからであり、信号が上手い具合に青だったら1分もかからない。

 現在城は玉藻公園となっていて、二の丸と本丸は有料である。200円。

 奇妙な事に、現存している櫓は全て金を払わなくても存分に見る事が出来る。

 高松市を最初訪れた時、まさに田舎町の駅だな、と感じたが、最近(2003年)訪れた時、駅舎や駅前が近代的なものへと変わっていたのでびっくりした。特に駅前の高層ビル(ホテルらしい)には驚いた。なぜ建てられたのか。

 

 2011年9月に再訪したところ、天守台とそこに行くのに必要な橋が修復工事中で、近付く事すら出来なかった。

 最近はどの城も修復中らしい。現時点では自分が知っている限りでは姫路城、川越城、高松城、丸亀城が修復中で、完全な姿が拝めなかった(姫路城以外は、全て修復工事中の姿を見せられる羽目に。熊本城も復元工事が進められている段階だが、それは例外と言える)。

 今回は、「これが最後の訪問になるかも」という覚悟で行ってみたものの、結局また訪れなければならない事になってしまった。

 2003年の訪問の時、駅舎や駅前の開発が進んでいて驚いたが……。2011年の段階では開発が更に進んでいて、高層ホテルが建っていた。8年の時の流れを感じさせる。

 

 現在櫓2棟が現存しているが……。

 月見櫓は堂々とした3層櫓だが、同じ3層櫓でも辰巳櫓は1層目から上に上がるにつれ層が低くなる、という奇妙な構造。そんな事もあり、3層にも拘わらず通常の城の2層櫓程度の高さしかない。江戸幕府の城だと、やっと1層に達する高さだと思われる。

 

  

辰巳櫓、月見櫓

 

20119月撮影分

 

  

月見櫓

 

  

辰巳櫓

 

  

東側石垣

 

  

月見櫓

 

  

月見櫓。月見櫓と石垣

 

  

修復中の廊下橋

 

  

廊下橋付近の石垣。濠(奥に修復工事中の天守台)

 

  

城内から見た月見櫓。城内の庭園

 

  

南側から望む天守台(修復中)。桜御門跡

 

  

城外から望む旭門

 

  

辰巳櫓と旭門

 

 

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伊予松山

 

 

別名

勝山城、金亀城 (キンキ)

所在地

790 愛媛県松山市丸の内1

種類

平山城

築城者

加藤嘉明

築城年

1602年

遺構

本丸、二の丸、石塁、木造3層3階地下1階天守(重文)、現存櫓、現存門、復元櫓、復元門

初訪問

1994

備考

 松山城は1602年、加藤嘉明20万石が26年の歳月をかけて完成させた。彼は何が何でもこの地(勝山)に建てたかった為、勝山を2番目の候補にして幕府に申し出た。その結果、この地に建てる許可が出た。幕府が第1候補の土地は絶対認めないという原則を逆手に取ったのだ。しかし、嘉明は完成直後に会津若松へ移された。この際、40万石になったので出世であるが、彼にしては残念だっただろう。一説には完成した松山城(この時は5層天守)があまりにも立派だった為移されてしまったと言われている。

 加藤家の後、蒲生忠知20万石が入城した。彼には子がなく、断絶してしまった。

 蒲生家の後、1642年久松家が入った。5層天守が三層天守に改築されたのはこの時である。表向きは地盤が弱いからと言い訳したが、幕府に遠慮した為であるのは当然である。

 その後、松平家15万石が入城し、明治まで続いた。

 久松氏が築いた天守は1746年に落雷で焼け、大政奉還直前の1854年に再建された。これが今も残っている天守である。一時は国宝にもなったが、重要文化財に格下げされた。城は第二次大戦でも殆ど戦火を浴びずに残ったが、1949年の放火では多くの建造物が焼失した(放火した奴は打ち首にするべき)。大半は木造で忠実に再建されている。

感想

 松山城は、数多くの建築物が見られる。こりゃ姫路城並みだ! と喜びたくなるが、大半は復元されたものである。天守群でも現存なのは大天守だけで、小天守は全て復元されたもの。

 松山城へ登るには、山道を徒歩で登る方法(初訪問の時はこれだった)と、ロープウェイ(有料)を使う方法がある。ただ、ロープウェイは城の東にあり、そこまで行くのにかなり歩くことになるので、いっそ山道を登ってしまった方が楽かも。山自体は極端に高いものではない。

 本丸に入るのは無料だが、天守曲輪に入るには料金を支払わなければならない。自分が行った時は350円だった。

 大天守は、小天守と居並ぶ為、遠くから見ると堂々としているが、近付いて見ると意外と小振り。それでも価値ある遺構である。

 松山市では、JR松山駅より私鉄伊予鉄道の松山市駅の方が規模が大きい。

 松山市周辺には、他に松前城などがあり、松山市内には他に湯築城がある。

 英語版はこちら

 

 

  

小天守の間から覗く大天守。天守群

 

2011年12月

 

  

大天守。大天守と小天守。乾櫓

 

  

乾櫓と乾門。大天守。渡櫓から望む大天守

 

  

大天守と一ノ門。太鼓櫓

 

  

巽櫓。リフトから望む大天守

 

  

隠門続櫓。太鼓櫓。隠門続櫓の石垣と大天守

 

  

筒井門。太鼓櫓

 

  

太鼓櫓。小天守

 

  

石垣。二の丸から望む天守群

 

   

道後公園から望む天守。二の丸から望む天守群

 

  

太鼓櫓。本丸

 

  

天守群

 

  

天守群

 

  

天守群。乾門

 

  

乾門。乾櫓

 

  

天守群。二ノ門から見た一ノ門

 

  

本丸の北隅櫓。天守丸から見た大天守

 

  

大天守から見た南隅櫓。天守内部

 

  

天守から見た本丸、乾櫓

 

  

天神櫓。天神櫓の神代

 

二の丸から望む本丸

 

 

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今治

 

模造天守と櫓

 

別名

吹揚城、美須賀城

所在地

794 愛媛県今治市通町3-3

種類

平城

築城者

藤堂高虎

築城年

1604年

遺構

本丸、二の丸、三の丸、石塁、濠、模造天守、模造櫓、模造門

初訪問

1997

備考

 今治城を築いたのは藤堂高虎である。

 築城の際、高虎は石材を安く集める為、業者に対して高く買うと申し出て、多くの石材が集まった時点で「もういらん」と嘘をつき、業者たちに石材を捨てさせ、それを築城に使用した、という話が残っている。これは大分城にも伝わっている話とそっくりで、全国で同じ方法が取られたと思わせる。

 こうして、海水を壕に取り入れた、5層5階の天守を持つ立派な城は完成を見た。

 しかし、藤堂氏は後に別の地への移転を命じられ、今治を去った。代わりに入ったのが久松松平氏である。

 この際、今治は2万石の小領地になってしまった為、天守は不要と見なされ、解体されてしまった。

 現在の天守は今治市制60年(1980年)を記念に建てられたもので、パンフレットによると解体された今治天守が移築された亀岡城の古写真を元に忠実に復元されたとしてあるが、名城事典は単なる模造天守と称している。

感想

 今治城は今治駅から1キロ近く離れている。最初訪ねた時は徒歩で向かった。道路標識がなく、最短距離の1.5倍ほど歩いた。

 遠くから見る今治城は立派だが、全てが模造で、歴史的根拠のないものばかり。

 本丸までは無料で入れるが、天守に入るには300円の料金を支払う。模造天守とあって、中は近代的である。それなのにスリッパに履き代えなければならない。

 

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