津村巧の

城巡り

TAKUMI TSUMURA'S

CASTLE GUIDE

 

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010

 

熊本城

八代城

大分城

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中津城

鹿児島城

五品嶽

隈本城

千葉城

 

 

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熊本城

 

   

宇土櫓と復元天守群。宇土櫓から望む天守群

 

   

小天守から望む宇土櫓。復元飯田丸五階櫓と復元天守群

 

別名

銀杏城

所在地

860 熊本県熊本市本丸1-1

種類

平山城

築城者

加藤清正

築城年

1601年

遺構

本丸、石塁、濠、宇土櫓(重文)他櫓多数、城壁、鉄筋コンクリート5層6階

初訪問

1996年(20044月、20115月再訪)

備考

 熊本城は、名将加藤清正が築いた。

 古城と呼ばれる事になる隈本城は、52万石の大大名の居城としては狭過ぎた。そこで、千葉古城跡の側にある茶臼山(標高50メートル)に新たに城を築く事になった。1601年に築城が始まり、6年後に大部分が完成した。その後も普請は続き、二の丸、三の丸と城郭は拡がり、70万平方メートルにもなった。肥後の国に、江戸と名古屋に次ぐ大城郭が完成したのである。

 1607年、清正は城へ移り、隈本を熊本と改めた。

 清正は、天守の前に、銀杏の木を植えさせた。この木が天守までの高さに達した時、混乱が起こると予言した。この木が別名の由来である。

 立派に仕上がった熊本城だが、幕府から見ると立派過ぎた。清正の子忠広の代で、理由にもならない理由で加藤家は改易されてしまう。

 その後、小倉から細川氏が入り、明治まで続いた。

 城の大部分は維新後も残っていたが、西南戦争で西郷隆盛が率いる軍の攻撃を受ける。その際、天守を含む城の大部分が炎上した。

 この火災は、城に立てこもった政府軍が標的になり易い建築物を焼き払う為に火を放ったという説が有力であるが、武具や食料が保管してあった筈の櫓や天守を焼き払うのはおかしいという反論も上がっているので、そのまま受け入れる訳にはいかない。

 現在の天守は、戦後の復元である。

 疑問に思うのが加藤忠広の行動である。何故対抗しなかったのかと。勝ち目がなかったからとも考えられるが、加藤家は改易されるのである。戦を開始し、幕府に一泡吹かせて死ぬ方が武士らしいのではないか。

 熊本城は江戸城と名古屋城に次ぐ巨城である。全国の諸大名を相手に篭城するのも可能だっただろう。しかも、大坂夏の陣の後である。和平の条件として外堀を埋める、等という言葉に騙される事はない。長期戦になっただろう。

 その上、九州となれば多くの大名にとって遠征となる。戦が長引けば、攻城側から寝返る者も出たかも知れない。

 維新後の西南戦争でも持ち堪えたのだ。戦国時代から殆ど進歩していない江戸時代初期の兵器が相手なら、1年でも2年でも持ちこたえただろう。つまり、勝てたかも知れないのだ。なぜ忠広は易々と切腹してしまったのか。

 忠広は自分が切腹さえすれば家が守れると約束されていたのかも知れない。それか、将軍家と繋がりを持っていた自分が改易される筈はないと最期まで思っていたのかも知れない。

 ともかく、熊本城は戦を見ずに城主が交代したのである。

感想

 熊本城はJR熊本駅から離れているが、利用し易い路面電車があるので問題ない。

 熊本城の最大の見所は石垣だろう。迷路のようで、石垣が何重にも折り重なっている感じ。いくら進んでもまた別の石垣が立ち塞がる。

 西南戦争で天守を含む多くの建築が焼失したが、現存建築も意外と多い。その中でも最大規模なのが宇土櫓。櫓とはいうものの高欄があり、大天守、小天守に続く第三の天守と呼ばれるのも納得できる。宇土城天守を移築した、という説もある。

 本丸以前は無料で入れるが、本丸は有料。200円だった。が、これだけでは復元天守に入れない。500円の共通券が必要だった。

 熊本城周辺には古城(隈本城)と、千葉城跡がある。

 2004年に行ったところ、入場料は500円になっていて、本丸は勿論、復元天守にも入れるようになっていた(入場料のみ、というのは廃止されたようだ)。2004年現在、復元工事が進行中だった。2007年の築城400年記念に合わせての工事らしい。

 

 2011年に訪れたところ、復元整備はますます進んでいた。

 その姿には圧倒される。

 ただ、これらが復元建築ではなく、現存建築だったら、と一層思ってしまう。

 

 英語版はこちら

 

宇土櫓と大天守(奥)

3層5階で、第三の天守とも呼ばれる現存建築。重要文化財

宇土城天守を移築したもの、とされてきたが、最近の調査でそうでないことが判明した

 

天守群

 

2011年4月

 

  

大通りから望む熊本城。復元飯田丸五階櫓と復元天守群と備前堀。復元未申櫓

 

  

復元未申櫓。二の丸広場から見た復元未申櫓。二の丸広場から見た宇土櫓、復元天守群

 

  

二の丸広場から望む復元戌亥櫓。北側から望む戌亥櫓。数奇屋丸から望む宇土櫓

 

  

復元本丸御殿内部。不開門。二様の石垣

 

  

奉行丸(復元未申櫓)。西出丸(復元戌亥櫓)

 

  

二の丸広場から望む西出丸、宇土櫓、復元天守群。復元戌亥櫓、宇土櫓、復元天守群

 

 

  

復元戌亥櫓、宇土櫓、復元天守群。宇土櫓と復元天守群

 

  

宇土櫓内部。宇土櫓の急勾配の階段

 

  

復元天守群。復元本丸御殿

 

  

復元本丸御殿。復元天守群。

 

  

東竹の丸の現存櫓群。長塀

 

天守内で展示されている復元模型(東側から望んでいる)。熊本城は復元工事が進んでいるが、これを見る限りまだまだと言える

手前にある、三方を川に囲まれた一角が、千葉城だった場所。左上にあるのが古城(隈本城)だった場

 

 

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八代城

 

  

北東から見た石垣。天守台。近くの小公園にいた黄金の鯉

 

別名

白鷺城、松江城

所在地

熊本県八代市松江城町

種類

平城

築城者

加藤忠弘

築城年

1628年頃

遺構

本丸、石塁、濠

初訪問

2004年(2011年4月再訪)

備考

 八代城は、中世の古麓城、安土桃山時代の麦島城、江戸時代の松江城と3つの時期に分かれる。

 古麓城は山城で、麦島城と八代城は平城であった。

 古麓城は、1335年に名和長年によって築かれた。

 名和氏は200年にわたって一帯を支配したが、人吉城主相良氏との抗争に破れて八代を去り、一帯は相良氏の本拠地となる。

 16世紀末期に薩摩の島津氏が勢力を伸ばすと、相良氏は島津氏の軍門に下り、八代を去る。八代は島津氏のものとなるが、1587年6月に豊臣秀吉の九州征伐で島津氏は八代を明け渡し、佐々成政が入城する。

 佐々成政は肥後国衆一揆を引き起こした責により翌年改易され、小西行長が宇土城主となり肥後国南半24万石の領主となった。小西行長は、古麓城を廃して小西末郷に命じて球磨川の北岸に新しい八代城を築城させた。この城が現在麦島城跡と呼ばれている城である。

 1600年、小西行長は関ヶ原の戦いに敗れて斬首され、肥後国北半の領主だった加藤清正が肥後一国を与えられると、家臣の加藤正方が麦島城代となった。元和の一国一城令が出されると熊本藩領内では南関城・内牧城・佐敷城などが取り壊されたが、麦島城は例外的に存続が認められた。しかし、元和5年(1619年)、大地震で倒壊し、廃城となった。

 麦島城の倒壊後、清正の子・加藤忠広は幕府の許可を得て前川の北岸・松江の徳淵の近くに新たに城を築いた。城は元和8年(1622年)に竣工。これが現在一般的に「八代城」と呼ばれる松江城である。麦島城時代に認められた一国二城体制は継続された。

 1632年に加藤氏が改易されると、豊前小倉藩主だった細川忠利が熊本藩主となり、忠利の父・細川忠興(三斎)が八代城の北の丸を隠居所とした。忠興は四男の立孝を本丸に住まわせ、いずれ自分の隠居料9万5千石を継がせて立藩させることを望んでいたようだが、正保2年(1645年)閏5月に立孝は若くして没し、忠興も同年12月に没した。八代城には立孝の子・宮松(細川行孝)が残されたが、藩主細川光尚はこれに宇土郡・益城郡内から3万石を与えて宇土支藩とし、筆頭家老でかつ将軍直臣の身分も持つ松井興長(長岡佐渡守)を八代3万石の城主とした。以後明治3年(1870年)の廃城まで代々松井氏が居城とした。

感想

 石垣が予想以上に立派な城跡だった。

 ただ、城地そのものは神社の敷地となってしまい、城の面影は石垣に沿って歩く事で感じるしかない。

 天守台を含む石垣は、上まで上がれるが、「文化財として維持する」との目的で柵は一切設けられていないので、自己責任で上る必要がある。

 八代駅から八代城跡まで距離があるが、バスが通っているので(市役所前バス停で下車)、行くのは困難でない(ただ、時間によってバスの本数は激減するので、時刻表を事前に確認しておくべき)。

 図によると、四層の大天守や、小天守を構えるかなりの規模の城だった。

 

  

天守台石垣(2004年)。東側石垣

 

  

南東側

 

  

石垣から望む城南部。城内から見た天守台

 

  

小天守台から見た大天守台。天守台を北部から望む

 

  

天守台を西から望む。入り口付近に設置された八代城復元図

 

 

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大分城

 

  

東丸の南東にある櫓。東丸の北東にある櫓。天守台から望む東丸の北東にある櫓

 

別名

荷揚城、府内城、白雉城、百雉城

所在地

大分県大分市荷揚町

種類

平城

築城者

福原直高

築城年

 

遺構

本丸、石塁、天守台、濠、復興櫓

初訪問

1996年(2011年5月再訪問)

備考

 大分城が、大分城と呼ばれるようになったのは明治からである。江戸時代は府内城と呼ばれていて、城下は府内と名付けられていた。

 この地に入った福原直高は、暫く大友館を居城としていたが、新たに城を築く事にした。大友館の北の荷落と呼ばれる地域が城地として選ばれた。

 荷落は城の名としては縁起が悪いという事で、荷揚に改めて完成した城だが、福原直高の支配は長く続かなかった。関ヶ原で西軍に属したのである。石田三成の妹婿だったから、無理もない。

 その後、竹中氏が入り、4層天守を築く等の改築で、現在見られる城を完成した。竹中氏が2代で滅んだ後、日根野氏や松平氏が入城し、明治を迎えた。

 江戸時代には戦火は見なかったが、明治になって実戦を経験した。西郷隆盛に属する中津隊の攻撃を受けたのだ。城兵は、攻城軍の撃退に成功している。

感想

 大分駅から大分城へ行くには、500メートルほど北上し、大通りを曲がって東に向かえばいい。

 ちなみに、大分城跡は県庁前にある。

 城跡には濠と石垣が残っていて、漆喰塗りの壁を模した櫓数基や城壁も再建されている。城跡の南面を眺めると、城全体が復元されたのではないかと思わせる。残念ながら、南面は『表』。裏まで再建してはいない。

 それどころか、現在の城跡は本来本丸・西丸・東丸と複数の曲輪に分かれていたのだが、本丸と西丸・東丸の間にあった濠は埋め立てられ、一つの曲輪の様になってしまっている(県庁が置かれていた時期があり、その際に埋め立てられたらしい)。

 一つの曲輪と化した城地の西側には大分文化会館が建てられ、東側はその駐車場と化している。角張ったモダンな建物で、城址には場違い。馬鹿でかいので、復元された城壁や櫓の背後に突き出て、せっかくの再建物を台無しにしている。

 これでも石垣や、一体化した城地を囲む濠が保存されているだけマシである。

 城では櫓が数多く再建されている。ここまで再建するなら文化会館を移動し、埋め立てられた濠を掘り起こし、曲輪をきちんと復元すればいいのに、と思う。

 入場は無料だった。

 

 2011月に最訪問したところ、北側で廊下橋が復元されているのを知った。

 

復元隅櫓

 

  

西丸の南西の櫓、東丸の南東の櫓

 

  

東丸の南東と北東の櫓北二重櫓跡。

 

  

多聞櫓門。天守台から望む二重櫓(人質櫓)

 

  

天守台

 

  

南東の櫓

 

 

  

復元廊下橋

 

  

北二重櫓跡。二重櫓(人質櫓)

 

大分城の図。現在は本丸と西丸・東丸の間にある濠は埋め立てられ、あたかも一つの曲輪の様になっている

 

 

 

 

 

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暘谷城

 

  

天守台。本丸東側から南東の天守台を望む

 

別名

日出城、青柳城

所在地

大分県速見郡日出町字二の丸

種類

平山城

築城者

木下延俊

築城年

1601

遺構

石塁、天守台

初訪問

1996年(2011年5月再訪問)

備考

 暘谷城は、姫路からこの地に入った木下延俊が築いた。1601年のことである。妻の兄は小倉城主細川忠興で、築城に大きな援助を得た。この為、3万石の小大名でありながら、本丸、二の丸、三の丸の縄張りを持つ堅固な城を築くことができた。本丸には3重天守、2重櫓5、平櫓1、城門3、そして御殿まであったという。二の丸と三の丸は侍屋敷となっていた。

 延俊の遺言で、木下家は2万5000石の本家と、次男延由を祖とする立石5000石に分かれた。延由は石高を偽ったとして切腹を命じられるが、立石木下家は12代続いて明治を迎えた。5000石なので、旗本でしかなかったが、大名に準じる扱いを受けたという。本家の木下家も16代続いて明治を迎えている。

 木下といえば、後に豊臣秀吉となる木下藤吉郎を連想する。延俊は、秀吉の正室北政所の兄の三男なのだ。秀吉の、血の繋がらない甥である。そんな人物が、豪勢な城を築いてよく江戸時代を生き残れたなと思う。

 ちなみに、切腹を命じられた延由は、大坂城落城後処刑された筈の秀頼の子国松だったという言い伝えもある。

感想

 最寄の駅はJR日出駅。城は駅から歩いて15分程度の距離。現在は日出小学校の敷地になっている。

 敷地に入ると城跡であることが把握し辛いが、外に出て周りを歩くと石垣が望め、城跡であるのが分かる。

 入場は無料。

 櫓が一つ残されているということだが、探し出せなかった。

 日出で停車する列車は少ないので、時間をよく確認する必要がある。乗り損なうと数時間待つ羽目になる。

 

天守台石垣

 

2011年

 

  

望海櫓辺りの石垣。城跡北側の堀跡

 

 

  

本丸東側から南東の天守台を望む。南東から天守台を望む

 

  

天守台。望海櫓辺りの石垣

 

 

城前にある復元図。左が南方向(別府湾)に当たる。現在はこの全域が日出小学校の敷地となってしまっている

 

 

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中津城

 

模造天守

 

別名

丸山城、扇城、子犬丸城

所在地

871 大分県中津市二の丁1273

種類

平城、(水城)

築城者

黒田如水

築城年

1589

遺構

本丸、石塁、濠、模造天守55

初訪問

1996

備考

 中津城は、黒田如水が築いた。1589年のことである。

 関ヶ原後、如水は福岡に移された。中津城は小倉の細川氏の居城となった。この時、小規模であったとされる中津城は改築され、近世の城となったのである。二の丸、三の丸が拡げられ、扇形になった為扇城と呼ばれるようになった。

 その後、小笠原氏、奥平氏と城主が代わり、明治まで続いた。

 この城は、西南戦争の際、大分城を攻めた中津隊の攻撃を受けている。

感想

 最寄の駅はJR中津駅。城は駅の北西に位置する。歩いて20分程度の距離。途中、福沢諭吉の旧宅があった。

 現在、中津城には立派な天守がそびえているが、これは模造で、歴史的根拠はない。

 本丸までは無料で入れる。天守は有料。300円だった。

 天守の最上階は扉が閉め切ってあった。烏が入るのを防ぐ為だ。外に出るとなるほど、無数の烏が屋根に止まっていた。

 

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鹿児島城

 

  

石垣(南側)

 

別名

鶴丸城

所在地

鹿児島県鹿児島市

種類

平山城

築城者

島津家久

築城年

1602年

遺構

本丸、石塁、濠

初訪問

2004年(2013年4月再訪)

備考

 薩摩藩主島津家77万石の居城として、1600年に築かれた。

 島津家は、関が原の戦いの際には西軍に属した。それにも拘わらず領地を削られる事無く存続を許された。その為の配慮の為か、鹿児島城は天守も重層櫓も持たない城として整備された。実際、藩の者も「城」とは呼ばず、「御館」と呼んでいたらしい。

 城のほぼ全ては明治維新後の西南戦争で失われた。城の裏には城山がそびえている。西郷隆盛が自刃した地はこの城山だった。

感想

 名城辞典で何も残っていないのは知っていたので、特に期待していなかった。

 ま、期待を裏切らなかった城といえる。

 鹿児島城は鹿児島市役所の近くにあり、路面電車が走っているので、交通のアクセスは悪くない。

 入場は、城の周りを歩くだけなら無料である。

 

 2013年5月に再訪。

 この城を訪れた後、島津氏が築いた他の城も訪問。

 いずれも鹿児島城と同じ屋形型だった。

 それらを見ると、島津氏が鹿児島城を天守も重層櫓も持たない城として整備したのは何も幕府に遠慮したからではなく、屋形型の城こそ理想の城の形だと信じて疑っていなかった可能性も出て来る。天守や櫓が立ち並ぶ城を目の当たりにする機会は何度もあったのだろうが、それらを見ても「ふーん」程度にしか思えず、それらの要素を取り入れてみよう、という発想が生まれなかった、とも考えられる。

 一方、「城を総石造りにする」という要素だけは取り入れた様で、これまでの島津氏の城と比較して石垣の規模は大きい。

 鹿児島城は、幕府に遠慮した質素な作りの城ではなく、屋形型の城の完成型で、島津氏からすればかなり贅沢な作りの城だった、という考えも出来なくもない。

 

2004年

 

  

城山から見た桜島。迫力ある山

 

2013年

 

  

石垣(南側)。城内にある黎明館。NHK大河の題材となった篤姫の像

 

  

城内北側にある庭園(復元)。石垣(東側)。石垣(南側)

 

  

石垣と橋。城の近くにある県政記念館。海から撮った桜島

 

  

石垣(南側)

 

  

橋。城内の黎明館

 

  

石垣(南側)

 

  

城内の庭園。石垣(東側)

 

  

石垣(南側)

 

  

海から見た桜島。城の知覚にある県政記念館

 

 

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五品嶽城

 

城山こと五品嶽城跡

 

別名

五本竹城、世直城、東城

所在地

広島県庄原市東城町東城

種類

山城

築城者

宮氏

築城年

不詳

遺構

土塁、石塁、井戸

初訪問

2010年

備考

 五品嶽城がいつ築城されたのは定かでないが、宮氏によって築城されたのはほぼ間違いないとされる。

 宮氏は後に大富山城を築いて本拠を移すまで、ここを本拠とした。

 といっても、宮氏はここを捨てた訳ではなく、五品嶽城を東城、大富山城を西城と呼び、維持し続けた。

 その後、宮氏は毛利氏の命で出雲に転出。代わりに、佐波広忠が五品嶽城城主として入城した。1591年のこと。

 その佐波氏も、1600年の関が原の戦いの後に毛利氏が萩に移されると、東城を去る。

 毛利氏の代わりに広島に入った福島正則の家老長尾一勝が五品嶽城に入城するものの、福島氏が改易されると津山に移る。

 五品嶽城はこれをきっかけに廃城となった。

 五品嶽城は標高490メートル、比高170メートルある城山に築かれた。

 元々古墳が山頂にあり、それを城に築き直したという。

感想

 JR東城駅から望める小高い山が城山こと五品嶽城跡(ゴホンガダケ)。

 駅前通り真っ直ぐ進むと国道316号線に行き着く。左手に陸橋があるので、それに近付くと五品嶽城入り口が。

 城山全体が緑地として整備されているので、登り易い。

 山頂にある本丸は常の丸と呼ばれ、井戸跡がある。途中に太鼓の平(ナラ)、ケヤキが平、カヤの平、杉の平という曲輪がある。いずれの曲輪もそれなりに整備されている。

 元は古墳があった山で、山頂には古墳らしき盛り上がった部分がある。

 

  

常の丸(本丸)。常の丸の井戸。常の丸から出土したらしい瓦

 

  

城内の石垣。カヤの平の井戸。案内板に描かれた城の図

 

 

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隈本城

 

隈本城に関する案内板。その向こう側ある高台が実際の城跡と思われる。ただし、部外者以外立入不可

 

別名

古城(フルシロ)

所在地

熊本県熊本市古城町

種類

平山城

築城者

鹿子木親員

築城年

1507年

遺構

 

初訪問

19964月(20044月、20115月再訪問)

備考

 千葉城に入城した鹿子木親員は、新たに城を築く事にした。これが現在古城と呼ばれている隈本城である。

 鹿子氏の支配は三代続いた後、大友氏によって城を逐われてしまう。その後、大友氏に協力した城氏が入城した。

 城氏は島津氏に頼っていたが、秀吉の九州征伐の際、城を明け渡すことになった。秀吉の命令で佐々木成政が入城したが、成政はたった一年で自刃する。

 関ヶ原の後肥後の国を与えられた加藤清正は、隈本城に入ったが、52万石の居城としては狭過ぎた。そこで千葉城跡付近に新たに城を築き、熊本城と名付け、そこへ移った。隈本城は古城と改められ、二の丸の一部となった。

感想

 隈本城(古城)の案内板は、桜町から桜橋を渡り、熊本合同庁舎の前を横切ったところにある。

 実際の城跡は、案内板のある柵の向こう側にある県立第一高等学校のグラウンドとなっている高台と思われる。ただ、そこは部外者以外立入禁止となっているので、観光客はまず入れない。

 入れたとしても、遺構は殆どないと思われる。

 

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千葉城

 

 

別名

 

所在地

熊本県熊本市千葉城町

種類

平山城

築城者

出田秀信

築城年

1470年頃

遺構

 

初訪問

19964月(20044月、20115月再訪問)

備考

 現在の熊本城が建つ茶臼山に、出田秀信が城を築いた。これが千葉城である。1470年頃の事。千葉城は熊本の地の中心的な城となったが、秀信は戦で戦死した。子の重綱が継いだが、武将としての力量は父には及ばず、失脚した。1496年、鹿子親貞が入ったが、西南の台地に新城を築くと千葉城を廃した。これが現在古城と呼ばれている隈本城である。

感想

 千葉城跡は現在県立美術館分館や、NHK放送局が立ち並び、城跡としては全く整備がなされていない。

 県道303号線から離れ、NHK放送局へ向かう坂道に、千葉城に関する案内板が設置されている。それが、ここが熊本城以前に城があった事を示す数少ない証拠である。

 

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