伴城があった場所。伴東城への道。伴東城跡にある神社 伴東城跡。伴東城跡にある神社。伴支城跡にある神社 伴支城跡にある神社。伴北城跡にある小学校。伴東城跡 |
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別名 |
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所在地 |
広島県広島市安佐南区沼田町伴 |
種類 |
丘城、山城 |
築城者 |
伴氏 |
築城年 |
室町時代 |
遺構 |
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初訪問 |
2001/02、2011/06 |
備考 |
辺りの地名にもなっている伴氏は、安芸国守護の武田氏の一族だった。 1397年に武田伴遠江五郎が、当時厳島社領であった大塚から安佐北区安佐町久地にまたがる領地を横領したことが記録されている。 戦国時代になると、伴氏は武田氏の有力家臣として働くようになった。1517年、毛利元就の居城猿掛城の攻撃では、伴氏親子も城攻めに参加し、奮戦したが、失敗に終わった。逆に毛利氏に攻められる立場となる。 武田氏が毛利氏に滅ぼされた後も伴氏は生き残ったが、毛利氏との最後の戦いで伴城に篭城し、家臣57名と共に自決し、滅びた。 伴氏は代々「五郎」という名が多かったらしく、伴城も「伴五郎の城」と呼ばれるくらいらしい(誰にそう呼ばれているのかは不明)。 現在伴城跡のある天神山には天満宮が建てられている。 伴城跡は祠のある天神山の他に伴中学校と伴小学校の二ヶ所にもあり、三ヶ所を合わせて「三城田」とも呼ばれる(バス停留所の名前にもなっている)。 伴小学校か中学校なら城に関する何かがあるかも知れないので、今後機会があったら行ってみたい(また骨折り損のくたびれ儲けになる可能性も高いが)。 2011/06 「伴城」は一つの城ではなく、いくつもあり、資料によって呼び方や場所が微妙に異なる。 正確な資料が少ないので、止むを得ないのかも。 というか、当の伴氏も、「ここが伴城」「ここは伴城ではない」と決めてはいなかったと思われるし、時代によって伴城が移転していた可能性もある。。 2001年に訪れた「伴城」は、後に入手した資料では「伴東城」と呼ばれる城らしい。 この後に手に入れた資料では、「伴城」は現在商業施設(JEANS FACTORY)があった場所にあったとされ、更に南の高台に「伴支城」、伴小学校に「伴北城」があった、となっている。つまり、「伴城」は4城あった事になる。 2001年の時点で手に入れた資料も掛け合わせると、小学校の北部にある中学校にもまた伴城があったということから、「伴城」は5城あった事になる。いずれも半径500メートル以内にあるので、一つの城だった、と見る事も出来そうだが、その一方で川や谷で隔てられているし、時代も異なる可能性があるので、同じ地に城が何度も築き直された、と考えるのが妥当か。 現在伴城跡のある天神山には天満宮が建てられている。 伴城跡は祠のある天神山の他に伴中学校と伴小学校の二ヶ所にもあり、三ヶ所を合わせて「三城田」とも呼ばれる(バス停留所の名前にもなっている)。 伴小学校か中学校なら城に関する何かがあるかも知れないので、今後機会があったら行ってみたい(また骨折り損のくたびれ儲けになる可能性も高いが)。 |
感想 |
伴城は小高い丘の上に建てられていたというが、現在丘は削り取られ、平地になっており、そこにJEANS
FACTORYが営業している。店の裏は高台になっていて、それが以前丘があった事を示している。 伴東城(自分がこれまで「伴城」と認識していた)は、伴城の直ぐ北にあり、緑地が残っている。県道沿いの丘には天満宮があり、城っぽさが何となく残っている。 伴支城は、伴城の南の高台にあったが、現在は完全に宅地化され、面影は一切ない。城があった事を示すものもない。 伴北城は、伴城から県道と川に隔てられた現在の伴小学校にあったとされるが、ここも面影はなく、城があった事を示すものは何もない。 とにかく何もないが、この辺りを歩き、昔は城があった、と実感するだけでも価値はあると思われる。 |
伴城があったとされる場所。JEANS FACTORYになっている(高架はアストラムライン) 同じ場所から撮った伴東城。こんもりとした丘の上にある 伴城があったとされる丘から撮った伴東城。マンションが邪魔 伴東城がある地に立てられた天満宮 天満宮の裏 天満宮への道 伴支城があったとされる住宅街 伴支城があったとされた地の近くにあった神社 伴北城があったとされる伴小学校 伴北城辺りから望む伴東城(高架はアストラムライン) ウェブページ「城郭放浪記」の地図(Google Mapベース) |
登山道を振り返ったところ 2001年の写真。石碑は2011年に訪れた際は確認できず |
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別名 |
田方城 |
所在地 |
広島県広島市西区田方一丁目 |
種類 |
丘城 |
築城者 |
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築城年 |
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遺構 |
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初訪問 |
1996/08、2001/03、2011/07 |
備考 |
草津城は、田方城ともいう。 築城年は定かでないが、1456年に武田信賢によって攻められて落城、1457年に大内氏に攻められて落城、更に1553年に毛利元就に攻められて落城している。 元就は、児玉就方を城主に任命。桜尾城、仁保城、そして宮尾城と共に陶晴賢を迎え撃つ為の前線とした。 関が原の後、毛利氏は広島を去り、代わりに福島正則が広島に入る。 正則は草津城下の山陽道を整備するのと同時に、草津城を廃城とした。 現在、草津城址はJR山陰本線と広電宮島線により3分割されてしまっている。 |
感想 |
2001年に訪れた時は、山頂に城跡である事を示す石碑を確認出来たが、2011年に訪れた時は電力会社の設備らしいものが建っていて、その周辺はロープで閉鎖されていた。石碑は確認出来なかった。 2001年の時点ではなかった高層マンションが直ぐ側に立ち、「城跡」らしさはますます失われている。 元々草津城跡はJRと広電で分割されてしまっているので、地元住民も「城跡」の意識がないのかも知れない。 |
草津城跡への登山道 草津城への登山道を振り返ったところ。山頂にある電力関連施設 山頂の竹林。近くにあった案内図 2001年の写真 草津城のある高台。現在はマンションが建っていて、同じ位置からは望めないと思われる 2011年には確認出来なかった石碑 |
有崎城跡の大歳神社入り口。大祭神社への道 大祭神社の狛犬 |
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別名 |
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所在地 |
広島県呉市両城1丁目 |
種類 |
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築城者 |
石田氏 |
築城年 |
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遺構 |
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初訪問 |
2011年7月 |
備考 |
有崎城は現在、金比羅山公園と大歳神社となっており、城跡への手がかりは大歳神社の鳥居横にある有崎城跡と刻まれた石碑のみ。 昔は呉湾に突き出た岬 の様な場所で水軍の砦として機能していたと思われる。 当時は矢野の野間氏や警固屋氏、山本氏等水軍が勢力争いをしていて、この有崎城も城主である石田氏の拠点だった。 現在は岬だった周辺は埋め立てられ、有崎城跡はかなり内陸にある状態になってしまっている。 |
感想 |
金比羅山公園と大歳神社はJR呉駅の西側にある三条地区の高台にあり、地形的に城っぽい部分は見受けられるものの、遺構と呼べるものは一切ない。 高台の斜面もコンクリートで固められてしまい、城の風情は感じられない。 ただ、高台とあって、眺めは悪くない。 昔は海が直ぐ側だったので、瀬戸内海がよりよく望めたと思われる。 |
大歳神社入り口と登山道 神社前の金比羅山公園(二の丸跡?)。公園内の二宮金次郎像 大歳神社。大歳神社からの眺め(以前は直ぐ側まで海だったと思われる)。 大歳神社を下山途中 |
明法寺 |
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別名 |
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所在地 |
広島県呉市和庄登町 |
種類 |
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築城者 |
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築城年 |
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遺構 |
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初訪問 |
2011年7月(再訪2013/01) |
備考 |
呉衆の山本甲斐守房勝の居城とされる。山本氏は呉衆の中でも最大の勢力を誇っており、大内家の水軍として活躍した。現在、城跡は明法寺と寺迫公園となっている。 |
感想 |
呉市中通の北東の明法寺と寺迫公園(市立和庄中学校の北側に位置する)が城跡とされる。 明法寺を訪れ、城跡らしき遺構を探してみたが見つからなかった。 地形は、城っぽく見えるかといえば見えるが、それだとどこも城になってしまう。 |
明法寺 明法寺 2013/01の杉迫城(明法寺) |
塩江橋から望むはりまや橋の南側 |
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別名 |
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所在地 |
高知県高知市堺町 |
種類 |
平城 |
築城者 |
国沢氏 |
築城年 |
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遺構 |
無し |
初訪問 |
2011年9月 |
備考 |
国沢城は、いつ築城されたのかは定かでない。 城主の国沢氏は本山氏に仕えていたが、長宗我部元親が潮江城を攻略すると、城主国沢将監は長宗我部側に付く。これにより、将監は城と領地を安堵された。 長宗我部はその後台頭した豊臣秀吉と対抗し没落。 関が原の戦いで長宗我部が完全に滅亡すると、城主国沢能明は城を去り、隠棲した。 |
感想 |
城があったとされる場所は、現在完全に市街地と化し、その片鱗すら窺えない状況(正確には風俗街で、安易に歩き回れない状態)。 直ぐ近くに、「日本三大がっかり」の一つに揚げられるはりまや橋がある。橋には全く見えないので(単なる車道。下に堀川という川が通っていて、一応橋なのだが、なかなか気付き難い)、がっかりするのも当然。それを気にしてか、車道の横に古風な橋をかけてあるが、今度はそれを「はりまや橋だ」と勘違いしてしまっている者が多い。 |
国沢城の近くにある「日本三大がっかり」のはりまや橋 堺町にある説明板。以前は要法寺町という地区で、その更に前は国沢城があった、との記述が 説明板周辺。一帯は風俗街になってしまっている 説明板の地図のアップ |
塩江橋から望む筆山(潮江城跡) |
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別名 |
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所在地 |
高知県高知市筆山町 筆山公園 |
種類 |
山城 |
築城者 |
森氏 |
築城年 |
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遺構 |
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初訪問 |
2011年9月 |
備考 |
築城年代は不明。 南北朝時代には既に存在していたとされる。 戦国時代初期は森氏の支城だったが、その後地域で勢力を拡大した本山城の本山氏のものになる。 本山氏が長宗我部元親により滅ぼされると、城は森孝頼に与えられた。 |
感想 |
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塩江橋から望む筆山(潮江城跡)。高知城天守から望む筆山 |
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別名 |
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所在地 |
高知県高知市城山町 |
種類 |
丘城 |
築城者 |
神田氏 |
築城年 |
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遺構 |
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初訪問 |
2011年9月 |
備考 |
築城年代は不明。 戦国時代の城主は神田勘助だったが、1561年に長宗我部元親が神森城を落とすと、勘助は石立城を捨て、本山氏の朝倉城へと逃れた。 |
感想 |
現在、一帯は「城山町」「石立町」となり、かってこの地に石立城があった事を告げているものの、遺構は一切残っていない。 ただの住宅地である。 |
城山付近 |
試験果樹園から望む朝倉城。城内 |
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別名 |
重松城 |
所在地 |
高知県高知市朝倉 |
種類 |
平山城 |
築城者 |
本山茂宗 |
築城年 |
1521年頃 |
遺構 |
石垣、土塁 |
初訪問 |
2003年10月。2011年9月再訪 |
備考 |
朝倉城の築城は1521年から1527年の間。本山茂宗が土佐の中央に進出する為の拠点として築いた平山城である。しかし、1561年、長宗我部元親に攻められ、落城する。 本山氏は、本拠地の本山城へと逃れた。長宗我部元親はその本山城も攻め落とし、本山氏は滅ぶ。 朝倉城は、存在したのは30年間という短い期間に過ぎない。しかし、高知県においては規模の大きい中世城跡である。 |
感想 |
JR朝倉駅から路面電車の線路を渡って500メートル程南下すると、「朝倉城跡登山口」の表示が見られるので、それに従って坂道を1キロ程進むと(登山口といっても、その時点では住宅街)、北城山公民館に辿り着く(城の案内板もある)。その裏側に、東登り口がある。 蛇注意の看板があるので、少なくとも足元に注意しながら進んだ方が良い。 城跡内は、詰の段まではこれといった案内板はないが、何となく場所は分かる。 城内は木々が生い茂っているが、詰の段は木々が少ない大地となっている。眺めはさぞ素晴らしい、と思ってしまうが、実際は高い木々に囲まれ、全く望めない。 城の至る箇所に石塁が残る。これが城のものか、後世に築かれたものなのかは不明。 |
朝倉城の石段。詰の丸への石段。鵜来巣公園から望む朝倉城址 朝倉城登山口入り口。入り口から道路を挟んだところにある案内板 登山口を登ったところにある北城山公民館。公民館のとなりにある案内板 朝倉城東上り口。上り口から直ぐ 詰の丸の土塁。詰の丸への入り口 詰の丸。詰の丸の説明板 詰の丸 詰の丸にある神社。詰の丸 詰の丸の土塁。西詰の丸への道 西詰の丸石塁。山道を下って振り向いたところ(西詰の丸の土塁が望める) 下り道。下り道横の堀切 北城山。西上り口 試験果樹園から望む朝倉城 詰の丸にあった。朝倉城の図。赤い矢印は、自分が今回辿ったと思われるルート |
鵜来巣公園への入り口。鵜来巣城跡と思われる丘 |
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別名 |
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所在地 |
高知県高知市鵜来巣町 |
種類 |
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築城者 |
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築城年 |
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遺構 |
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初訪問 |
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備考 |
鵜来巣城は神田川北岸の丘陵に築かれた城だった。 鵜来巣弾正の居城だったとされるが、後に本山氏の城となる。 1561年に長宗我部元親がこの城を攻めるが、撃退している。 城山は昭和に入ってから軍隊が山を削ってしまった為、遺構は何も残っていない。 |
感想 |
鵜来巣城の一部は現在公園となっている。高い場所にあり、まさに城跡と言いたいが、遺構と呼べるものは一切ない。 奥に、木々に覆われた更に小高い山がそびえるが、フェンスに囲まれ、立ち入る事は出来ない。 |
鵜来巣公園への入り口。公園内(奥に神社が) 鵜来巣城跡と思われる丘 |
宮前幼稚園の外側から望む。南側から望む |
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別名 |
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所在地 |
高知県高知市井口町 |
種類 |
平山城 |
築城者 |
井口氏 |
築城年 |
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遺構 |
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初訪問 |
2011年9月 |
備考 |
井口城は、戦国時代に一帯を支配した本山氏に属した井口勘解由を城主としていた。 1560年、長宗我部元親は井口城を攻略。井口勘解と親しかった吉田周孝に説得させようとするが、失敗。戦闘状態に。勘解由は吉田軍の撃退に成功したが、敗走する吉田軍を追撃したところ長宗我部元親の弓矢に倒れ、井口城は主のない状態に。その結果、落城した。 |
感想 |
護国禅寺の北、宮前幼稚園の南にある小高い丘が井口城の遺構とされる。といっても、宅地開発でかなり削られてしまっているらしく、原型は殆ど留めていないらしい。 また、丘の直ぐ下には民家が建ち並び、部外者が勝手に上がれる様な状態ではない。 |
南側から望む |