展望広場の碑。さくら広場から自由広場の斜面を望む 展望広場の神社。狛犬 |
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別名 |
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所在地 |
高知県土佐市蓮池 |
種類 |
平山城 |
築城者 |
近藤家綱 |
築城年 |
1170 |
遺構 |
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初訪問 |
2011年9月 |
備考 |
蓮池城は、1170年、平氏の家人近藤家綱が、荘園の守護として居城したのが始まり。しかし、近藤氏は源頼朝によって滅ぼされる。 1192年に、源氏の藤原国信が入城し、大平氏を名乗る。大平氏はその後代々蓮池城を継ぎ、一帯を支配するが、1546年に一条氏が大平氏を滅ぼす。この一条氏も、1557年に本山氏によって城を追われる。 1560年に長宗我部氏と本山氏が争いを始めると、それを機に一条氏が城を奪還。しかし、一条氏は1569年に長宗我部氏に属する弘岡城主吉良親貞によって再び追われてしまう。 蓮池城は吉良親貞の子の親実が引き継ぐが、長宗我部盛親の継嗣問題で元親の逆鱗に触れ、親実は自刃を強いられる。 城主を失った蓮池城は、廃城となる。 |
感想 |
現在、一帯は城山公園として整備されている。 公園は複数の高台に分かれ、それらが山城の郭の様な形状となっているので、城の遺構を城跡をそのまま公園化した様に見えなくもない。が、廃城となったのは400年以上前である事を考えると、遺構とは考え難い。 展望広場と称されている高台に碑が立ち、城に関する説明板も設置されている。 城山は、入り口(国道56号線と県道39号線との合流点の近く)から20メートル程度の高さで、楽に登れる。 |
城山公園(蓮池城址)入り口前。城山公園(蓮池城址)入り口から見上げる さくら広場から自由広場の斜面を望む さくら広場から展望広場の斜面を望む 展望広場。展望広場からさくら広場と自由広場を望む 自由広場を端から見上げる。土佐市と高知市を隔てる仁淀川 公園内の図と、今回辿ったルート |
入り口の石碑 |
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別名 |
阿波屋形、下屋形、勝瑞城館 |
所在地 |
徳島県板野郡藍住町 |
種類 |
平城 |
築城者 |
細川詮春 |
築城年 |
1363年 |
遺構 |
土塁、濠 |
初訪問 |
2011年10月 |
備考 |
勝瑞城の歴史は室町時代に遡る。 細川和民が室町幕府から四国の経営を委ねられ、阿波秋月(土成町)に軍府を置くが、三代目詮春が1363年に勝瑞に移って城を築く。ここから勝瑞城の歴史が始まる。 細川氏はその後8代にわたって勝瑞城を中心に四国を支配。頼之の時代に細川氏は二家に分かれ、京都に移った細川氏の屋敷を「上屋形」、阿波に残った細川氏の屋敷を「下屋形」と呼んだ。 応仁の乱で、京都の上屋形では細川晴元の家臣三好長慶が主君を退いて幕府の実権を握り、下屋形でも長慶の弟義賢が細川持隆を殺して実権を握る。勝瑞城はそのまま三好氏の城となった。 勝瑞城とその城下は細川・三好氏の治世により大いに反映するが、三好氏3代目の時代になると、土佐の長宗我部元親が勢力を伸ばし、勝瑞城も攻められる。 城を任されていた十河存保は籠城して堪えるが、1582年9月に存保は讃岐に逃れ、勝瑞城の歴史は幕を閉じる。 城下町はその後も残ったが、後に阿波に入封した蜂須賀家政が徳島城を築くと、町は徳島城下に移転。旧勝瑞城一帯は一気に衰退した。 |
感想 |
徳島線JR勝瑞駅で降りて、側の踏切を渡って真っ直ぐ進むと大通りと合流。 そのまま少し進むと勝瑞城址に辿り着く。 戦国時代にしては珍しい平城。実際には城というより、城館に近かったと推測される。 現在の城址は寺の敷地と化してしまっているが、その分僅かに残った遺構はそれなりに保存されている。 元本丸は濠(というか池)で囲まれ、その意味でも城らしさを残している。ただ、その周りにも広がっていたとされる城地は市街地化され、城の面影は残っていない。 |
城址入り口。入り口から望める本丸跡(寺の敷地になっている) 本丸内 本丸内 本丸の土塁跡。土塁跡と濠 濠。蓮に覆われた濠 |
追手門と天守。三の丸から望む天守。本丸から望む天守 ライトアップされた天守。黒鉄門。天守の鯱瓦 |
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別名 |
鷹城、大高坂城 |
所在地 |
〒780 高知県高知市丸の内1-2-1 |
種類 |
平山城 |
築城者 |
山内一豊 |
築城年 |
1603年 |
遺構 |
本丸、二の丸、三の丸、石塁、現存天守三層六階(重要文化財)、御殿、門、多聞櫓 |
初訪問 |
1995年(2011年1月、2011年9月最訪問) |
備考 |
高知城は、24万石を持って土佐国に転移した山内一豊によって築かれた。 現在、城山である大高坂山は、以前にも四国を手中に入れた長宗我部元親が城を築こうとしたが、川の増水で木材が流されるなどの問題で失敗してしまい、築城を断念した。 一豊は、それを踏まえて名工を招待し、築城に当たらせる。この為、築城は成功し、今残る高知城の基礎となった。しかし、1727年、追手門を除いて城郭の殆どが城下町の大火で焼失してしまった。天守を含む再建が終了したのは1753年である。現在残る本丸の建造物は、この時のものである。 1873年、本丸の建造物と、追手門を除いて、全ての建造物が取り壊されてしまった。1934年に天守は国宝に指定され、1950年に重要文化財に再指定された(なぜ国宝でないのか疑問)。 現存建築物は天守閣、黒鉄門、追手門、廊下門、懷徳館(正殿)、西多聞など15棟ある。いずれも重要文化財だ。二の丸、三の丸には建築物は残っていないが、本丸は完全に残っている。これは他の城では見られない。規模は小さくても、貴重な存在だ。 |
感想 |
高知城は、高知駅から約1キロ離れたところにある。 駅から高知城の側にある県庁まで路面電車で行けるようになっているが、これまで一度も利用したことがない。 城内は、本丸まで無料で入れる。ただ、本丸そのものは午後5時になると入れなくなる。天守は本丸御殿と渡櫓と連結していて、これらの内部を見るには400円の料金を支払う。 高知ではアイクリン(アイスクリームのようなもの)が名産品らしい。城内では、真冬でも露店を出して売っている。 高知市内には他に朝倉城がある。 英語版はこちら。 |
三の丸から見た天守 追手門と天守 天守と本丸御殿 2011年1月 詰門辺りから望む天守。詰門辺りから望む二の丸石垣(2011/01) 2011年9月 追手門と天守。追手門横の濠から望む追手門と天守 追手門側面。三の丸入り口付近から望む天守 三の丸入り口付近から望む天守。二の丸から望む天守 二の丸から望む廊下橋。本丸から望む天守 2011年10月 2011年1月 追手門裏側。三の丸から望む詰門 詰門辺りから望む天守。詰門辺りから望む二の丸石垣 黒鉄門(本丸内から)。黒鉄門(犬走りから) 犬走りから望む本丸石垣。犬走りから望む詰門 2011年9月 追手門と天守 追手門と天守。追手門 廊下橋(東から)。石樋(突き出た部分。排水用。高知は雨が多い為) 二の丸石垣東面 二の丸石垣北面 本丸西側から。廊下橋(西側から) 御台所屋敷跡 黒鉄門。天守と本丸御殿 天守と本丸御殿。廊下橋内 二の丸から望む天守 三の丸から望む天守 三の丸。追手門(内側から) ライトアップされた高知城 本丸にある日時計線が描かれていて、それが正午を指す。黒鉄門 本丸御殿。御殿内 御殿内(上段の間)。物見窓(鉄砲狭間だけでは敵の動向が把握し辛いという事で設けられた。全国で残っているのは高知城だけ) 御殿内。上段の間(正面にあるのが藩主護衛の武士が隠れたとされる武者返し) 武者返しの中。天守内 天守から見下ろす三の丸。高覧の手すり(後に設けられたのと本来の高覧の高さの差に驚かされる) 天守から見下ろす二の丸と廊下門。天守から見下ろす本丸 |
八幡神社入り口。神社内。道路から見た城跡 |
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別名 |
野田城、下野田城 |
所在地 |
高知県南国市下野田字城 |
種類 |
平城 |
築城者 |
野田俊吉 |
築城年 |
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遺構 |
土塁 |
初訪問 |
2011年 |
備考 |
野田土居城の築城年代は定かではないが野田俊吉によって築かれたと云われる。 下野田にある城八幡一帯に築かれていた。 野田氏は、七代長宗我部兼光の弟俊吉が野田氏を名乗った事に始まるとされる。長宗我部元親の時代の城主は野田甚左衛門で、天正3年(1575年)幡多郡宿毛に移封になり、宿毛甚左衛門と名乗った。関ヶ原合戦の後、長宗我部氏が改易となると藤堂高虎に仕え千五百石を領したという。 その際に野田土居城は廃城となった様である。 現在、周囲は宅地や水田となって遺構は殆ど残っていない。城八幡が祀られている土台は主郭の北西隅付近の土塁である。城は居館を拡張した復郭の平城で地籍図によれば「詰」、東に「上村土居」、南西に「南二の塀」、南東に「南門」、北に「北二の塀」の地名が残る。 |
感想 |
JR後免駅から東方1キロ離れた所にある下野田公民館の隣の八幡神社に、「野田城跡」の標識が見られる。 この野田城跡(150平方メートルもない)から、南東に向かって城地が広がっていたと思われるが、現在は民家や田畑となっていて、城の面影はない。 一帯は平地なので、平城に分類されるが、時代を考えると「城」というより「城館」に近かったと思われる。 |
八幡神社入り口。神社内 道路から見た城跡。左のアップ |
大将軍神社(藤森神社) |
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別名 |
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所在地 |
高知県南国市上野田 |
種類 |
平城 |
築城者 |
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築城年 |
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遺構 |
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初訪問 |
2011年 |
備考 |
上野田地区の大将軍神社(都市地図では藤森神社と記されているが、鳥居では「大将軍」となっていた)から西の八幡神社一帯に土塁と見られる遺構が残っており、上野田土居城の城館跡とされる。 南からはやや高い地形になっている。 |
感想 |
JR後免駅から北東1.5キロにある大将軍神社が上野田城跡とされる。 神社一帯は木々が残り、廃城跡の雰囲気を残している。 |
大将軍神社(藤森神社) 大将軍神社(藤森神社) 大将軍神社(藤森神社) |
宇和島城 |
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別名 |
鶴島城、丸串城、板島城 |
所在地 |
〒798 愛媛県宇和島市丸之内1 |
種類 |
平山城 |
築城者 |
藤堂高虎 |
築城年 |
1596年 |
遺構 |
本丸、二の丸、石塁、現存天守三層三階(重要文化財) |
初訪問 |
1995年(2011年12月再訪) |
備考 |
宇和島城は、藤堂高虎によって築城された。後に入城した10万石の大名伊達宗利は、5年かけて大改修した。その時に築かれた3層の天守は、独立式の層塔型という、天守建築の最終発展型である。しかし、1662年に建てられたものなので、新しくもない(古い形式――復古型という――の望楼型天守を持つ高知城や、松山城は1700年代から、1800年代に建てられている)。現在も本丸や二の丸など、堅固な石垣が残されているが、建築物は重要文化財の天守だけ。 宇和島城にも幽霊話がある。10万石の大名として宇和島の地を受けた伊達秀宗(政宗の長子。側室から生まれた為、仙台62万石を受け継ぐ事が出来なかった)は、直ちに借金の支払いする事を決めた。 この役を任されたのは山家清兵衛である。しかし、家臣の反発を買い、国を運営費を着服しているという理由で処刑された。 その頃から城下に異変が起こるようになった。病疫が流行し、多数の人々が死んだ。その後も火事や地震が続いた。 このことを耳にした政宗は秀宗に調査するよう命じた。それによって清兵衛は運営費を着服していなかったのが明らかになった。秀宗は神社を建て、清兵衛を祭った。 清兵衛は元々忠実な家臣だったので、天守を幾度の台風から守り、今も守り続けているという。 |
感想 |
現存天守のない城跡が殆ど、という中、愛媛県には現存天守が二つもある。一つが伊予松山城。もう一つがこの宇和島城である。 城は駅から500メートルほど離れたところにある。城の入り口は入り組んだところにあるので、初めて行った時は探すのに苦労した。 城内には見事な石垣が残っているが、建築物は現存天守のみ。同じ愛媛でも伊予松山城とは大違いである。 本丸まで無料で入れる。天守に入るには200円を支払う。最初訪れた時は天守も無料だった。 ここの駅は数回使用しているが、いつも混んでいて、列が出来ていた。特急だったからか。 英語版はこちら。 |
登城中に見える天守。天守(本丸から) 2011年撮影 城の東側から望む店主。登城の道。石垣の石は比較的小さい 本丸石垣。二の丸辺りから本丸を望む 天守 天守。天守1階 階段の踊り場から1階を望む。最上階から望む本丸と宇和島市街。天守 天守。南門(従来はここが正門だった)。南側から望む天守 城の東側入口。石垣 井戸。本丸石垣 二の丸櫓跡。本丸への石段から望む二の丸 天守1階。天守1階の天井構造 天守1階。天守3階 天守2階。天守2階から踊り場と1階を望む |