湯築城 |
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別名 |
湯月城 |
所在地 |
愛媛県松山市道後湯之町 |
種類 |
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築城者 |
河野通盛 |
築城年 |
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遺構 |
本丸、濠の一部、碑 |
初訪問 |
1997年 |
備考 |
湯築城は600年以上前、伊予の豪族河野氏が築いたのが初めである。それから250年あまり、河野氏が一帯を支配した。 河野氏は秀吉によって滅ぼされてしまい(感想の追記2005/03を参照)、代わりに小早川隆景35万石が入城した。1585年のことである。しかし、たった2年あまりで、彼は筑前(福岡県)に転封される。 次に入ったのは福島政則である。 その後、伊予入りした加藤嘉明は、伊予松山城の築城を開始した。湯築城は廃城となり、建材は伊予松山城に使われた為、今は何の遺構もない(感想の追記2005/03を参照)。 |
感想 |
松山市内にあるもう一つの城。道後温泉の側に道後公園があるが、それが湯築城である。 公園なので、全体的によく保存されてはいるが、「城跡」として整備されているとは言い難い。 公園を歩き回るだけなら無料である。 追記2003/12 2003/12に訪れた時、濠の外側に武家屋敷が二棟復元されていた。見る価値はあるだろう。 ただ、山頂は展望台があるだけで、「城跡」として整備されているとは相変わらず言い難い。 追記2005/03 2005/03、高知の城保存会一行と共に再訪。湯築城の保存の為に活動している先生などの説明もあって、これまで分からなかったことが多く分かった。 何より不思議に思ったのは、なぜ中世の城なのに平山城なのか、という点。城周辺は平野で、丘陵部も30メートルほどしかない為、攻め込まれ易いのでは、と思ったのだ。 が、先生の説明で、むしろ城を置く地として最適だったのが分かった。 現在、湯築城周辺には川が殆どないが、河野時代は何本もの川に囲まれ、容易に近付けない地形だった。外堀も当時は現在より幅が広く、南部にいたってはその直ぐ外が川になっていた(この川は昭和に入っても残っていたという)。 そんな訳で、ここはまさに「城をここに築いてくれ!」と言わんばかりの地だったのだ。 現在、湯築城への入り口は北東西の3ヶ所だが、元は東西の2ヶ所だけだったらしい(江戸時代の古図には東西南北の4ヶ所あるが、発掘調査では南北の入り口は確認できなかったとのこと)。現在は路面電車通りに面している西側が表口で、東が裏口扱いだが、当時は東側に大手門が配置されていたという。 湯築城は、現在は保存活動が進められているものの、紆余曲折があったようだ。最大の難点が、備考の部分で記したように「建材は伊予松山城に使われた為、今は何の遺構もない」という説が既成事実化していたこと。つまり、保存する意味がない、と思われてしまっていたのだ(常識的に考えれば、中世の城の建材が近世の城で使える訳がないのだが)。そんな理由から、城跡には動物園が置かれるなど、遺跡としてはかなり雑に扱われていた。 動物園の移転に伴い、発掘調査をしたところ、25万点にも及ぶ遺物を出土し、遺構がふんだんに残された貴重な遺跡であることが判明。 これにより保存・整備が進んだ。 ただ、先生によると地元の反応はイマイチで、近くの道後温泉の関係者からは「駐車場にした方がよかった」という声が今でも聞こえるという。 また、備考では「河野氏は秀吉によって滅ぼされてしまい……」となっているが、先生によると実際には河野家は別の地に転封されただけらしい。が、城を明け渡した河野家の当主はそれから2年後に死亡(暗殺とも言われる)。それ以後も河野家は残ったらしいが、歴史の表舞台から完全に消えてしまい、今となっては子孫がどうなったかは分からないという。 |
湯築城 道後公園内に復元された武家屋敷。見た目は古風だが、設備は近代的 (閉館時に近付くとセンサーが感知して「閉館中です」と警告する) 2011年12月 城内の濠 城内の濠 外堀。城内の神社 復元建築 復元建築内の人形による再現 城山山頂から望む松山城。山頂付近 城内にある道後温泉の湯釜(旧)。近くの道後温泉 公園入口前の門松。城内の濠。城山山頂から望む松山城 |
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別名 |
亀田御役所土塁、箱館御役所、柳野城 |
所在地 |
北海道函館市五稜郭町・本通1 |
種類 |
稜堡式 |
築城者 |
武田斐三郎 |
築城年 |
1866年 |
遺構 |
土塁、石垣、堀、濠、土蔵 |
初訪問 |
2012年4月 |
備考 |
五稜郭は、江戸時代末期に現在の北海道函館市に建造された星形の城郭である。長野県の龍岡城等、当時日本で建造された星形の城郭を「五稜郭」と通称するが、一般に「五稜郭」といえば函館のそれを指す。 建造中の名称は亀田御役所土塁・完成後の名称は箱館御役所。柳野城(やなぎのじょう)とも呼ばれる。 五稜郭は、日米和親条約締結による箱館開港に伴い、防衛力の強化と役所の移転問題を解決する為に徳川家定の命により築造された。1857年の事。設計を担当したのは洋式軍学者の武田斐三郎である。総面積約250000平米。 北海道という当時の日本の北限で、これまでにないタイプの城、そして幕府の財政事情から生じる費用不足もあって、築城は難航した。当初の計画では半月堡を五箇所に設ける予定だったが、縮小され、大手口に一箇所しか造られなかった。石垣を多用する計画も縮小され、殆どが土塁となった。 漸く完成したのは1864年。その3年後の1867年に幕府は大政奉還し、明治へと移行。 このまま役目を終えると思われていたが、榎本武明や元新選組の土方歳三等によって率いられた旧幕府軍によって占領され、箱舘戦争の舞台となる。 五稜郭を拠点とした旧幕府軍は、一時は松前城を陥落させて蝦夷を平定し、蝦夷共和国を樹立するが、その直後に新政府軍の攻勢を受ける。圧倒的な兵力を前に、土方は戦死。残された榎本は降伏を受け入れ、旧幕府軍による抵抗は終結する。 五稜郭は1914年に公園として開放され、現在に至る。 五稜郭は、大砲による戦闘に耐えうる「最新の西洋築城技術」を元に築かれた、幕府にとって最新式の城だったが、当のヨーロッパでは、既にこの手の要塞建築は時代遅れとなっていた。 また、要塞建築の基本に反して奉行所という、大砲の標的に成り得る巨大建築を置くなど、ちぐはぐな部分も見られる。 既に時代遅れとなっていた要塞建築技術を、その本質を正確に理解しないまま、完全に旧式化していた日本の城と掛け合わせて築かれた城、となってしまった。 |
感想 |
JR函館駅から五稜郭まではそれなりの距離があるので、移動には路面電車を利用すると便利。最寄の駅は五稜郭公園前。五稜郭はそこから徒歩10分のところにある。 五稜郭の側に高さ107メートルの五稜郭タワーがあり、そこから星型城郭を一望出来る(展望台までの料金は840円)。地上レベルではその特異な形状が把握し辛いので、上るのは必至。 城内では、最上部が張り出した石垣や、複雑な形状の土塁等、日本の他の城では見られない遺構が見学出来る。 五稜郭の中心には、箱館奉行所が再建されている。公園自体は無料で出入り出来るが、奉行所は有料(500円)。 奉行所の側には、唯一の現存建築である土蔵がある。 |
五稜郭タワーから望む五稜郭。半月堡辺りの濠 半月堡への橋。半月堡から望む五稜郭タワー。半月堡の石垣を見下ろす 稜堡内の土塁。稜堡の石垣。稜堡内の土塁 土蔵(現存建築)。稜堡内の土塁。奉行所(復元) 奉行所。稜堡から望む奉行所 土塁・石垣を登ったところ。空掘 裏門橋。空掘 外堀と石垣 五稜郭タワーから望む五稜郭。半月堡と一の橋 半月堡と一の橋。半月堡の石垣 半月堡と一の橋。半月堡の石垣 内側から見た半月堡 半月堡の内側。半月堡を上がったところ 半月堡から二の橋方面を望む。半月堡の先端部 二の橋。二の橋前の石垣と濠 張り出し石垣 本塁の石垣上部から望む。本塁石垣から望む二の橋と半月堡 稜堡の土塁。本塁の石垣から奉行所を望む 稜堡の土塁。土蔵と五稜郭タワー 土蔵。稜堡の土蔵 大砲の展示。古写真でよく見る奉行所と同じ位置から撮影 奉行所。復元されなかった奉行所の部分はコンクリートで示してある 飼料置場跡。稜堡の土塁 稜堡の先端部にある弾薬庫後。弾薬庫跡から奉行所を望む 本塁の席類・土塁 本塁の席類・土塁 本塁の席類・土塁。空掘 空掘 裏門橋辺りから城内を望む。濠 裏門橋辺りの濠 |
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別名 |
新台場、神山台場、新五稜郭 |
所在地 |
北海道函館市陣川町 |
種類 |
稜堡式 |
築城者 |
蝦夷共和国 |
築城年 |
1869年 |
遺構 |
土塁、堀 |
初訪問 |
2012年4月 |
備考 |
四稜郭は、空堀に囲まれた稜堡式要塞。 規模は東西約100メートル、南北約70メートル。周りには幅5.4メートル、高さ3メートルの土塁が巡らされ、土塁の周辺には幅
2.7メートルの、深さ0.9メートルの空濠が掘られている。四隅には砲座が配置されている。南西側に門口があり、その後方に幅0.9メートルの通路が設けられている。郭内には建物は建設されなかった。 面積約2万1,500平方メートルを有する(五稜郭は25万平方メートル。4つの突起を持つ為この名がある。 五稜郭を援護する支城として、また東照宮を守護する為に北東約3キロメートル離れた丘陵上に洋式築城法により築かれた。建設には旧幕府兵卒200人および近隣住民100人が徴用され、昼夜兼行の突貫工事で造り上げたと言われる。ただ、堡塁としては脆弱であり、立て篭もるには手狭だった。 星形要塞であるものの、実際には野戦築城に近い。 函館戦争では、旧幕府軍による五稜郭・権現台場・四稜郭の防衛線を構築したが、権現台場が新政府軍の手に落ちると五稜郭から寸断された形になってしまい、四稜郭は威力を発揮する事無く放棄されたという。 1934年に国の史跡に指定された。 |
感想 |
神山辺りを巡るバス路線の停留所に「四稜郭入口」というのがあり、そこから交差点に戻って坂道を500メートル程北上すると、四稜郭に到達する。 入場は無料。 形状は異なるが、全体的には五稜郭の縮小バージョンといえる。 土塁の高さは堀の底からだと3メートル程度あり、堅固そうだが、堀の外からだと土塁の高さは1メートル程度にしかならず、城の外から中を覗けてしまう。 規模は小さく、ゆっくり歩いても10分程度で一周出来る。 土塁の要塞でありながらも保存状態は良く、よく潰されずに残ったな、と感心してしまう。 四稜郭とバス停を結ぶ坂道からは五稜郭タワーが遠方に望め、五稜郭と四稜郭の位置関係が把握出来る。 |
四稜郭の土塁。外から中が望める(戦闘時に敵兵としてこの位置にこうして立っていたら即射殺されているだろう) 四稜郭の土塁。稜堡の先端部には大砲の為の斜面が設けられている 土塁そのものは堀の底から高く盛り上がっている。虎口の造形 この位置(堀の外)からも城内が望める 史跡四稜郭入口。最初の説明板 最初の説明板の奥に四稜郭が 土塁。四稜郭への入口はこの虎口だけ(土塁をよじ登らない場合) 虎口。四稜郭内部 四稜郭内部 四稜郭内部 外側の堀の底からから土塁を見上げる 堀の外から城内を覗く 堀の外から城内を覗く 堀は深く掘り下げられているが、堀の外に出ててしまうと土塁は低い |
神山神社前。左に映る道を直進すると、四稜郭へと続く |
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別名 |
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所在地 |
北海道函館市神山3丁目 |
種類 |
台場 |
築城者 |
蝦夷共和国 |
築城年 |
1869年 |
遺構 |
土塁 |
初訪問 |
2012年4月 |
備考 |
1864年に五稜郭が完成した際、鬼門とされる東北の守護神とする為、東照宮がこの地に建てられた。 1869年春、急造された四稜郭と合わせて五稜郭の北方を防御する堡塁として、権現台場が築かれた。これは、東照権現を奉る神社に築いてあった土塁を利用した台場である。 四稜郭の隠し台場としての役割を担う筈だったが、同年5月に新政府軍はこの台場を五稜郭攻略前の標的と定め、攻撃する。その結果、あっさりと陥落。 四稜郭にいた旧幕府軍は、五稜郭から寸断された形となった為、四稜郭を放棄。五稜郭へと撤退した。 現在、権現台場は神社の境内になっており、一部それらしき土塁が残っている。 |
感想 |
バス停留所「四稜郭入口」から、交差点に戻って100メートル南下すると(四稜郭とは逆方向)、神山神社に到達する。 それこそが権現台場跡。 裏から進入する形となるので、正面に行くには更に進んで石段を下る事になる。 周辺は完全に住宅街と化している。 残されているとされる土塁も、指摘されなければそうとは分からない。 |
神山神社。社殿は後に建てられたもので、箱館戦争時のものではない 入口付近の説明板 |
説明板と石垣(上はロープウェイ駐車場)。説明板の裏の石碑 |
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別名 |
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所在地 |
北海道函館市元町 |
種類 |
陣屋 |
築城者 |
南部氏 |
築城年 |
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遺構 |
石垣 |
初訪問 |
2012年4月 |
備考 |
南部藩陣屋は、2度建設されている。 最初は1799年に建設されたもので、幕命により南部藩が蝦夷地を警備する為に築かれた。敷地は当初16200平米だったが、後に36000平米にもなった。建物は極めて粗末で、相当な人数が勤務し越冬したものの、病人が大勢出たという。1821年に松前氏が復領すると廃止される。 2度目の建設は1855年。箱館市内の弁天岬等の警備を命じられた南部藩は陣屋を再築。210人ほどの兵員を配置した。1868年8月に南部藩は旧幕府軍襲来の噂と政情不安から蝦夷地警備兵を撤退させる事を決め、陣屋に火を放って帰国。陣屋はそのまま廃された。 |
感想 |
現在は、函館山へ上る山麓ロープウェイ駅の直ぐ側にある専用駐車場となっている。 石碑と説明板は、駐車場の石垣の下にある。 石垣自体が陣屋の遺構なのかは不明(多分違うと思われる)。 石碑と説明板以外には、陣屋の存在を確認出来る遺構はない。 |
道を真っ直ぐ進むとロープウェイ駅へ |
五稜郭タワーから望む函館山 |
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別名 |
函館要塞 |
所在地 |
北海道函館市函館山 |
種類 |
近代要塞 |
築城者 |
明治政府 |
築城年 |
1902年 |
遺構 |
砲台跡、保塁跡 |
初訪問 |
2012年4月 |
備考 |
津軽要塞は、大日本帝国陸軍の要塞の一つ。1896年に北海道の函館港及び函館湾守備を目的に計画され、1902年に完成した函館要塞が前身。昭和になって津軽要塞と改称され、津軽海峡も守備範囲に加わる事となり、海峡の封鎖も可能となった。 千畳敷砲台、御殿山第一砲台、御殿山第二砲台、薬師山砲台及び立侍保塁で構成される。 明治の要塞建設以後、函館山等は要塞地帯として一般人の立入りが禁じられていたが(立ち入りどころか市街地から山を撮影する事すら禁じられていたという)、終戦後の1946年5月から一般開放される。 2001年10月に「函館山と砲台跡」として北海道遺産に選定された。 長年軍の方針で立ち入り禁止区となっていたが故に、開発されずに済み、市街地の近くにありながらも自然を多く残す山として市民や観光客に親しまれる様になったのは皮肉といえる。 |
感想 |
函館山は、松前氏が幕命で城を築く事になった際、候補となった地の一つ(予算不足もあり、結局元々あった館を拡張して松前城とした)。 明治政府が要塞を築いたのも納得出来る形状の山(「函館山」とは一つの山ではなく、一帯の複数の山を総じてそう呼んでいるらしい)。 現在は要塞跡というより、函館市街を望む為の場として知られている。 山へは自動車や徒歩でも上がれるが、ロープウェイが無難(往復1130円)。 |
五稜郭タワーから望む函館山。函館山から望む津軽海峡。 函館山から望む函館市内 |
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別名 |
福山城 |
所在地 |
北海道松前郡松前町字松城144 |
種類 |
平山城 |
築城者 |
松前崇広 |
築城年 |
1849年 |
遺構 |
本丸御門、御殿玄関、石垣、土塁、堀 |
初訪問 |
2012年4月 |
備考 |
松前城は、石田城と並び日本における最後期の日本式城郭。 蠣崎家(後の松前家)が居城としていた大館より福山(現在の松前城の位置)に移り、1600年から1606年にかけて陣屋を築いたのが始り。後にロシア艦隊等が来航すると、幕府は1849年に北方警備を目的として松前崇広に福山館改築(松前築城)を命じた。 築城計画の際、現在地の福山ではなく、地形的に要害となりうる箱館の臥牛山(函館山)
に築城すべき、という意見もあったが、福山を拠点とする商人が移転に反対した事や、予算に限りがあった事もあり、福山館を拡張する方法で落ち着き、三の丸から本丸までを津軽海峡に向けて雛壇式に築城した。 この時初めて3重の天守を上げ、1854年に完成。この頃から松前城と呼ばれる様になった。海側からの艦砲射撃に備えて砲台を備え、城壁の中には鉄板を仕込んでおり、天守や櫓、門の屋根には、寒さで凍み割れ易い粘土瓦の代わりに銅板を葺いた。 石垣の石は付近の山で採れた緑色凝灰岩が使用され、緑色の石垣に覆われた全国でも珍しい城となった。石垣の奥の土が解凍の際に流れ出してしまわないよう、石が隙間なく敷き詰められる等の工夫がなされているのも特徴である(亀甲積み)。 城の中心である福山の台地から海岸まではあまり距離がなかったので、大規模な城郭にはならなかったが、海上からの攻撃に対しては、日本式城郭としては鉄壁の防備を誇る城となった。 しかし、幕府は1867年に大政奉還し、明治を迎える。 1868年(明治元年)秋、蝦夷が島(北海道)に独立政権樹立を目指す旧幕府の榎本武揚を首領とする軍勢は、渡島半島の各地を制圧する。11月5日には元新選組の土方歳三率いる軍が松前城を攻略した。 松前城は海上からの攻撃を念頭に築城されたので、裏の山側からの防備は薄く、そこを土方軍に突かれ、落城。 いわゆる蝦夷共和国の手に落ちた松前城だったが、翌1869年の函館戦争で蝦夷共和国政権は崩壊する。 その結果、松前城は再び松前氏の領有となるが、1871年の廃藩置県の施行により城は明治政府の領有となる。1875年には天守等本丸の施設を除く殆どの建築物が取り壊された。 天守は太平洋戦争こそ切り抜けるものの、1949年に失火により焼失してしまう。現在の天守は1961年に外観復元されたものである。 全国的には「松前城」として知られているが、現地の者には「福山城」として親しまれている(広島県福山市に福山城があるので、一般化しないらしい)。 |
感想 |
昔はJRでそのまま松前まで行けたが、路線が廃止され、最寄り駅は30キロ程離れた木古内となっている。 そこからはバスで移動する事になるが、路線バスなので、1時間半かかる。 最寄の停留所は松城。 松前城は、そこから徒歩10分弱の距離にある(角を曲がると3層天守が望める)。 城址公園として整備されているのは二の丸上段と、天守と城門(大手門)周辺の本丸のみ(有料)。最近は、その外側の二の丸下段の城壁も復元されているが。 本丸跡そのものは公園として整備され、無料で立ち入りする事は可能だが、本丸内から天守へ入る手立てはない(塀をよじ登る強攻策以外は)。 順路は天守→本丸(塀によって分離された部分)→現存城門→二の丸、となる。 二の丸には移設された本丸御殿玄関がある。 復元された天守では、アイヌの歴史資料を展示している。 本丸の大部分は現在神社や寺の敷地となっている。 |
復元された城壁と3層天守。搦手二の門。二の丸下段から見た天守 二の丸下段から見た天守。本丸(有料セクション)から望む天守。天守から望む大手門(右の板塀の向こう側が公園となっている本丸跡) 二の丸から望む天守。本丸御殿玄関 大手門と天守。大手門(通常の大手門は城の入口の門だが、この城では本丸への門となっている) 本丸にある松前神社。本丸跡から天守と大手門を望む。空掘 龍雲院。天神坂門 二の丸下段の石垣(追手二の門?)。二の丸から望む天守 二重太鼓櫓跡。二重太鼓櫓跡から望む天守 天守前。搦手二の門 搦手二の門。天守前 天守と大手門。板塀の向こう側の本丸 板塀の向こう側の本丸。大手門と天守 本丸御殿玄関。大手門と天守 大手門。濠と天守 松前神社。本丸から望む天守(板塀で隔てられている) 本丸から望む天守(板塀で隔てられている)。空掘 龍雲院 北側の外堀跡。復元模型 搦手二の門辺りの城壁 |
河野館跡にあるペリー広場。ペリー像。河野館跡 |
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別名 |
箱館、宇須岸河野館(うすけしこうのだて)、宇須岸館 |
所在地 |
北海道函館市元町、弥生町 |
種類 |
館 |
築城者 |
河野政通 |
築城年 |
1454年 |
遺構 |
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初訪問 |
2012年4月 |
備考 |
鎌倉時代から室町時代中期にかけて、道南地方には和人の館が12あり、河野館はその内の1つだった。 1454年に津軽の豪族安東政季に従って、武田信広(松前氏の始祖)、河野政通らが蝦夷地に渡来した。 政通は、当時「宇須岸(うすけし)」と呼ばれていたこの地に「館」を築く。これが「宇須岸河野館」で、旧市立函館病院から元町公園に至る東西約92メートル、南北約115メートル、四方に土塁を築き、乾壕を廻らしていたとされる。この「河野館」を遠くから見ると箱に似ていたところから、「箱館」と呼ばれる様になり、地名発祥の基となった(1869年に「函館」と改称)
。 1512年のアイヌの反乱(コシャマインの乱)で政通の子季通ら一族が敗れ、和人は亀田に移る。箱館は以後100余年にわたって衰退した。 箱館は宝永年間(1704年〜1711年)になって、住民の増加に伴い相次いで寺院が建ち、また、1741年には松前藩の亀田奉行所が「河野館」跡地に移される等、再び栄えた。 1799年に幕府は東蝦夷地を直轄地とし、1802年に「河野館」跡地に箱館奉行所を設置する。この頃から箱館は更に発展した。箱館奉行所庁舎は、明治に入ってから開拓使の庁舎となり、北海道庁函館支庁庁舎となる。 その意味では、「河野館」跡は函館の行政の中心地となり続けた。 |
感想 |
基坂を上がった所に、旧イギリス領事館がある。その真向かいの空き地(一応公園らしい)の入り口に、河野館に関する説明板が設置されている。 実際の館の範囲は、更に坂を上がったところにある元町公園にまで広がっていたらしい。 現在、元町公園は旧公会堂や写真資料館等の洋館(重要文化財)が立ち並ぶ空間となっていて、館の面影はない。 一帯は高台になっていて、函館湾が望める。 函館湾に背を向けると、津軽要塞があった函館山がそびえる。 |
河野館跡にあるペリー広場(背後に函館山)。河野館跡の説明板 河野館跡 元町公園と函館山を望む。その辺りまで館の範囲だったとされる |