天守。追手門。丑寅櫓 |
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別名 |
鷹岡城、高岡城 |
所在地 |
青森県弘前市白銀町 |
種類 |
平山城 |
築城者 |
津軽為信・信枚 |
築城年 |
1611年 |
遺構 |
現存天守、櫓、門、石垣、土塁、堀 |
初訪問 |
2012年6月 |
備考 |
弘前城は、江戸時代には弘前藩津軽氏4万7000石の居城として、津軽地方の政治経済の中心地となった。 津軽平野に位置し、城郭は本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭から構成された梯郭式平山城である。 創建当初の規模は東西600メートル、南北950メートル、総面積38万平方メートルにも及んだ。 現在は、堀、石垣、土塁等城郭の全容がほぼ廃城時の原形を留めるという、非常に貴重な存在である。 また、天守を含む9棟の建築が現存する。天守以外の8棟は全て二代信枚が築城した時のもので、いずれも国の重要文化財に指定されている。 天守は東日本唯一の現存天守、そして最北の天守でもある。 弘前城は、当初は鷹岡城と呼ばれていた。鷹岡に城を築く事に決めたのは、津軽氏初代の為信である。 津軽平野平定を果たした為信は、それまでの居城であった大浦城、堀越城の二城が狭小なことから、1603年に幕府の許可を得て、鷹岡を築地として選び、築城工事にかかった。 1607年に為信が京都で亡くなると家督を継いだ三男信枚が二代藩主として工事を続行し、1611年にほぼ完成した。 その後、1871年の廃藩置県に至るまで津軽氏代々の居城となった。 創建当初は本丸の南西隅に五層天守がそびえていたが、1627年に落雷によって消失。現在の天守は本丸の南東隅にあり、1811年に辰巳櫓の改修を名目に建てられた。当時にロシア船の津軽海峡往来等の事態が発生していた為、これを重く見た幕府が特別に許可を与えたのである。高さは14メートルで、現存三重天守の中では最も低い。天守を再建し、城を整備した事で藩の財政が悪化し、百姓一揆が起こるようになり、藩政が不安定になったのは皮肉である。 |
感想 |
弘前城を訪れて驚かされるのは、城の規模。 追手門から天守のある本丸まで、かなり距離がある。 4万石の小大名がよくここまでの規模の城を持てたな、と思ってしまう。 よくよく考えてみると、城というのは元々これくらいの規模があるのが当たり前で、他の城が保存されなさ過ぎといえる。 日本最北の天守が何卒注目されてしまうが、櫓も3軒残っていて(いずれも三重)、門は5軒残っていて(全て櫓門)、見所が多い。現存建築は城内各所に散らばっているので、全て見て歩くと結果的に城全域を歩き回る事になる。櫓は全て非公開なので、外から眺めるしか出来ない。 城郭はほぼ全域が公園として保存されているものの、城内には城とは無関係な博物館や、植物園や、レクリエーション広場が建てられてしまっているのは残念である。特に、植物園があるお陰で辰巳櫓を濠沿いから眺められないのは残念。植物園(有料)に入れば見られるのかも知れないが。 二の丸、三の丸、四の丸、西の郭は無料で立ち入る事が可能(三の丸の一部は植物園になっているが)。 本丸・北の郭は有料。ただ、天守は本丸に入らなくても望む事が可能(というか、本丸の外から眺めるのが一番良い)。 天守は資料館となっていて、城に関する展示を見る事が出来る。天守の構造上、窓は小さく、最上階からの眺めはよろしくない。 北の郭には武徳殿(1911年築)があり、休憩所になっている。 |
追手門。追手門。辰巳櫓。 二の丸未申櫓。南内門。天守 天守(本丸前)。天守(本丸前)。天守(本丸内から) 天守1階。天守2階。天守支柱 天守天井部分。天守3階。天守3階屋根 天守3階から望む岩木山。天守屋根瓦。本丸未申櫓跡(旧天守台) 本丸未申櫓跡(旧天守台)。本丸未申櫓跡(旧天守台)石垣。鷹丘橋付近 濠。濠(本丸石垣)。丑寅櫓(二の丸内から) 丑寅櫓(三の丸から)北門(四の丸から)。北門正面 東内門。天守(北側から)。天守(南側から) 東門(城内から)。東門正面 |
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別名 |
黒石館 |
所在地 |
青森県黒石市境松2-52 |
種類 |
平城 |
築城者 |
工藤貞行 |
築城年 |
14世紀 |
遺構 |
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初訪問 |
2012年6月 |
備考 |
1333年末に起った大光寺合戦で、工藤右衛門尉貞行は南朝に付き、恩賞として「山辺郡二想志郡」「田舎郡上冬居郷」の地を得た。 貞行が入封し、居館として築いたのが、現在旧黒石城と呼ばれている黒石館である。 貞行には跡継がなく、1338年に没すると、遺領は南部氏に受け継がれる。 16世紀に津軽を平定した大浦(津軽)為信は、南部に通じる要衝として、黒石を重視し、旧黒石城を改修し、外浜地方支配の総代官所を置き、晩年には自らも隠居所として居城した。 城は、外広市館・内広市館と東西に並び、それに南の花館を加えた群郭式構成となっていたらしい。 現在の境松集落の部分よりやや低地の所に、外広市館・内広市館部分が残っており宅地になっているようである。南にあったとされる花館は残っていないという。 |
感想 |
黒石市には「黒石城」が2ヶ所ある。 現在黒石城として市民に慕われているのは新しい方で、歴史的には黒石陣屋と称される。 古い方は「旧黒石城」と称されている。 弘南鉄道境松駅から、県道38号を東へ100メートル程進んだところにある交差点に、「旧黒石城」の文字が刻まれた石碑が立っている。 城の規模は、完成当時は南北・東西100メートル以上と、それなりの規模であったと思われる。が、現在、一帯は住宅街と化し、その面影は全く窺えない。 周辺はひたすら平野で、「室町時代の城」でイメージする山はない。したがって、この黒石城も、「城」というより館であったと思われる。現に、別名「黒石館」。 県道38号線をそのまま進むと、現在「黒石城」として市民に慕われている黒石陣屋へと向かう。 |
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石碑 |
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別名 |
黒石館 |
所在地 |
青森県黒石市黒石 |
種類 |
平山城 |
築城者 |
津軽信英 |
築城年 |
1656年 |
遺構 |
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初訪問 |
2012年6月 |
備考 |
江戸前期の明暦2年(1656)に弘前藩主津軽信義の弟信英が、信義の遺領のうち5000石を分知され、陣屋を築いたのに始まる。 黒石津軽氏はのち、八代親足の時に宗藩より6000石を分与され、1万石で大名となった。 「黒石城址」の石碑と陣屋絵図の案内板が設置されている御幸公園は、馬場跡で、実際の陣屋は東側にある黒石神社との間の区画にあった。 |
感想 |
旧黒石城から県道38号線を東に移動し、T字路に差し掛かったところを南下し、暫くしてからまた東へ移動すると、社らしき建物が見えたので、足を止めると、広大な広場が広がっていた。 ここは何だろうと思って、よく見てみると、広場の奥に、ネットで見た石碑らしきものが建っていたので、近付いてみると黒石城址を示すものだった。 自分の予想では、もう少し南下した川沿いにあると思っていたので、実際には川からそれなりの距離があると知って意外に思った。そのまま川の側にまで下っていたら、物凄い遠回りを強いられていた事になる。 城跡の御幸公園は、野球場が整備される程広く、往年の規模を窺わせるが、陣屋や城の遺構はなく、南に空掘や土塁らしき痕跡が確認出来る程度に留まっている。 |
御幸公園の真向かいにある保育園(これを目印にしても良いか)。御幸公園(奥に石碑)。案内板の隣 南にある空掘りと土塁跡(らしい)。黒石稲荷神社。最初に目に付いた社 御幸公園 石碑と案内板 案内板。空掘りと土塁跡 |
本丸表門(復元。本丸から)。御物頭御板所。本丸新兵具隅櫓 |
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別名 |
矢留城、葛根城、秋田城、窪田城 |
所在地 |
秋田県秋田市千秋公園1-39 |
種類 |
平山城 |
築城者 |
佐竹義宣 |
築城年 |
1603年 |
遺構 |
土塁、濠 |
初訪問 |
2012年6月 |
備考 |
久保田城は、佐竹氏の居城。矢留城、葛根城とも呼ばれる。江戸時代の公式文書では「秋田城」と書かれることが多かったが、古代に出羽国府が置かれた秋田城とは所在地ともに別の城であり、現在では「久保田城」と称される事が多い(現在の学者らが「秋田城だと近くにある別の秋田城と混同するから」という勝手な理由で当時の者が正式に「秋田城」としていた城を「久保田城」とネーミングしてしまうのは、ある意味乱暴な話。現在の黒石城・黒石陣屋のように「新」「旧」で区別していた方が、観光の面では有利だったのでは、と思わないでもない)。 標高40メートルの神明山に築かれた平山城で、天守も石垣も持たない城として知られる(正確には、基底部に石垣を築き、その上に土塁を盛っている)。 1603年、出羽国に転封された佐竹義宣によって築かれた。転封当初は前領主の湊城を居城としていたが、手狭だった為城を新たに築く事になった。一時は横手も候補に上がったものの、義宣は防御や藩政発展の面から神明山に城を築く事を決める。 土塁のみの、高層建築を置かない城だった為、普請の翌年には完成した。 久保田城が土塁のみの質素な作りになってしまったのは、そもそも転封の理由が関が原の戦いで佐竹氏が東軍に属さず中立を保った事への処罰だったので幕府に遠慮した、築城技術の欠如、そもそも佐竹氏は土塁の城を築く事を伝統としていた等、色々な理由が上げられる。 最大の理由は、50万石の領地(常陸国)から転封を命じられた際転封先の石高を全く知らされておらず(極めて異例の事)、自身の財力を全く把握出来なかった、という事情があったからだと思われる。久保田藩の石高が20万石と確定したのは1664年で、入国から60年も経った後だった。 外様大名ではあったものの、佐竹氏はその後転封される事なく、義宣から数えて12代が秋田を統治し、明治維新を迎える。佐竹氏はルーツを平安時代にまで辿る事が出来(清和源氏の流れを汲む)、平安時代から武士の世を乗り切った数少ない大名となった。 1880年の大火で、城内の建造物はほぼ焼失。市街再建の過程で堀の多くは埋め立てられてしまう。 一方、本丸のあった一帯は千秋公園となり、秋田県民会館や秋田市立中央図書館明徳館等が整備されている。建造物としては、1880年の大火を唯一逃れた御物頭御番所が現存する。 平成になってから本丸新兵具隅櫓(1989年)、本丸表門(2001年)が再建されている。 |
感想 |
久保田城はJR秋田駅から徒歩10分程度の位置にあり、行き易い城といえる。 二の丸から本丸までに移動する際は上り坂を上がる事を強いられるが、元々標高40メートル程度の山なので、苦労は少ない。 本丸は、明治維新前は御殿等が建ち並んでいたと思われるが、現在は広い日本庭園として整備されていて、城らしい部分はあまり見受けられない。土塁も、城への興味が薄いものからすれば、「土手」「斜面」に過ぎないだろうし。 本丸の北西隅に本丸新兵具隅櫓が再建されているが、「質素な城」にはそぐわない立派なもので、「復元」ではなない様である。 一方、本丸表門は史料に基づいて復元されたもので城内で唯一「城らしさ」を演出している。 本丸表門近くには、御物頭御番所が現存する。入場は無料(靴を脱いで上がる)。 本丸南部の二の丸に茶室があるが、復元なのか、史料を無視して建ててみたものなのかは不明。自分が訪れた時は中へは入れないようになっていた。 一部(特に北部)は市街地化したり、城とは直接関係のない施設が建てられていたり、濠が埋め立てられてしまったりしてはいるものの、完成当時の城の規模を実感出来る程度の遺構は残されていて、「天守もない土塁だけの城」と秋田市が自虐的に称する以上の見所はある。 古写真や古図は残っているらしいので、もう少し復元に力を入れれば、秋田市の目玉になれるのに、と思う。 |
大手門の濠の蓮の花。堀の中にある石碑。二の丸 御物頭御板所内部。本丸表門(復元) 八幡秋田神社。佐竹義堯像(佐竹氏第30代、第32代当主) 本丸内。本丸の土塁 本丸新兵具隅櫓内で展示されている模型 本丸新兵具隅櫓から望む秋田市内。二の丸西部から望む本丸の土塁 二の丸西部にある茶室 茶室。茶室から望む本丸土塁。穴門跡 大手門の濠の横の広場。案内図 大手門の濠。二の丸にある石碑 石碑近くの古図。二の丸 二の丸。御物頭御板所 御物頭御板所 御物頭御板所 御物頭御板所。本丸表門(復元。本丸から) 佐竹義堯像(佐竹氏第30代、第32代当主)。本丸 本丸。本丸新兵具隅櫓から望む秋田市内 埋門跡。本丸の土塁 茶室 茶室から望む本丸土塁。穴門跡 |
展望台となっている模造建築。本丸にある秋田神社。展望台で展示されている城の古図 |
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別名 |
朝倉城、阿櫻城、韮城 |
所在地 |
秋田県横手市城山町 |
種類 |
山城 |
築城者 |
小野寺氏 |
築城年 |
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遺構 |
土塁 |
初訪問 |
2012年6月 |
備考 |
横手城の築城時期は諸説あり、いつ築城されたのかは不明。土砂崩れ防止と、斜面に敵兵が滑ってよじ登れないようにする目的で韮(ニラ)が植えられていた為、韮城とも呼ばれた。 戦国時代は小野寺氏がこの城を本拠としていた。 関ヶ原の戦いでは、小野寺義道は上杉景勝に通じた事より徳川家康に西軍方に組したと見なされた為1601年に改易される。城は一時的に最上氏の手に渡る。 1602年、久保田藩に佐竹義宣が転封されると横手城も佐竹家の所有となり、城代が入れられた。城代には伊達盛重、続いて須田盛秀が入っていたが、1672年に佐竹氏一門の戸村義連が入城して以降、戸村氏が明治まで城代を務めた。 本来は一国一城令により破却の対象となる予定だったが、横手城を重要な拠点と考えた義宣が幕府に働きかけた為、破却を免れている。 江戸時代末期の戊辰戦争で、東北地方では佐竹氏は唯一官軍側に付く。その為、旧幕府側に付いた東北諸藩の軍勢が、戸村大学が籠城する横手城を攻撃。落城した。 1871年に廃城となり、1879年に戊辰戦争で戦死した22人の霊を慰める為焼け残った城の資材を再利用して本丸跡に秋田神社が建立された。 本来の横手城に天守はなかったが、1965年に郷土資料館と展望台を兼ねて二の丸跡に模擬天守が建設された。東北地方における模擬天守としては初である。 |
感想 |
JR横手駅から横手城まで、2キロちょっとの距離がある。 途中までは比較的分かり易い道しるべがあるが、横手川を渡って天守風の展望台が見えてきた途端に道しるべがやけに不親切になり、一時は間違った道を歩んでしまった。 分類上は山城に属するらしいが、山自体は50メートルにも満たない。 模擬天守が建てられているのは二の丸跡で、そこから低地を挟んだ小規模な高台に本丸跡がある。本丸には秋田神社がある。 これといった遺構はないが、本丸の土塁はそれなりに残っていて、往年の様子を想像出来る。 古図を見る限りでは、いくつもの郭から構築された、中規模の城だった様である。ただ、久保田城と同様、天守のない、土塁だけの城だったらしい。 |
横手川から望む横手城。展望台。二の丸から望む展望台 二の丸。展望台から望む二の丸 展望台から望む本丸跡。駕籠 マスコットキャラクターとむらくん。鎧。展望台を望む 本丸の土塁。本丸。本丸への石段 本丸への石段 横手川から望む横手城。展望台 二の丸跡。二の丸跡と展望台 展望台。展望台から望む二の丸跡 展望台から望む本丸跡。本丸跡にある秋田神社 本丸。本丸への石段 本丸への石段。横手川から望む横手城 |
現在は神社の参道となっている土塁跡 |
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別名 |
前田館 |
所在地 |
秋田県大仙市大曲丸の内町 |
種類 |
平城 |
築城者 |
安倍氏 |
築城年 |
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遺構 |
土塁 |
初訪問 |
2012年6月 |
備考 |
大曲城がいつ築かれたのかは不明。平安時代に安倍氏の残党が築城した、という説がある。 南北朝時代の頃になると、三戸南部氏がこの地を支配する事になる。 1468年、南部氏は小野寺氏との戦いに敗れ、一帯から退く。 大曲城には、小野寺氏の旗下にあった前田氏が城主となった。 1582年、前田氏は仇敵である赤尾津氏・羽川氏に急襲され、大曲城は落城する。 1602年、佐竹氏の久保田転封に際し、佐竹義賢が城代として駐在したが、1615年の一国一城令により破却された。 現在は城跡の殆どが市街地化され、遺構は殆ど確認出来ない。八幡神社の参道が土塁の一部だという。 |
感想 |
JR大曲駅から丸子川の方向へ向かったところにある、という情報を掴んでいたので、丸子川を渡す橋を渡り一帯を歩いてみたが、新しい住宅街があるだけで、城らしい遺構は見当たらなかった。 そろそろ駅に戻らないと、と思いながら丸子川に沿って橋へ向かっていると、対岸に神社らしきものが見えた。 あれだ、と直感的に思い、橋をまた渡り(そもそも橋を渡る必要はなかった)、神社に接近。 ネットで見た八幡神社があった。 八幡神社の社から入口までの参道歩いてみたが、城の遺構(参道そのものが土手になっていて、土塁の一部だったという)である事を示すものは何もない。ひたすら神社である。 石造の五重塔等、興味深いものはあったが、ここに本当に城があったのかは確信が持てなかった。 廃城は江戸時代初期だったので、遺構がないのは仕方ないが、「ここに城があった」くらいの認識を地元住民が持ってもいいと思うのだが。 |
社から鳥居方面を望む。石造の五重塔。鳥居 石碑。土塁側面。鳥居から社を望む 社。社から鳥居を望む 鳥居 |
古城山。主郭跡にある石碑 |
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別名 |
小松山城 |
所在地 |
秋田県仙北市角館町古城山 |
種類 |
山城 |
築城者 |
角館氏 |
築城年 |
南北朝時代 |
遺構 |
曲輪、空堀 |
初訪問 |
2012年6月 |
備考 |
角館城は、仙北平野の北東部、檜木内川左岸の独立丘陵古城山(標高166メートル)に築かれた山城である。頂部を主郭に南側に二の郭を配置した階郭式の城郭で、主郭を中心に四方に郭が配置されていたとされる。 築城時期は不明。1424年、戸沢氏が北浦郡の門屋城から角館城へ移った事が記録に残っている。 戸沢氏はそれ以降角館を本拠地として戦国時代を行き抜く。 1600年の関ヶ原の戦いで、戸沢氏は東軍に属し、最上氏と共に上杉氏と戦うが、上杉討伐で秋田氏の勢力が増大する事を恐れ、消極策に終始する。戦後、この行動が咎められて、東軍に属したにも拘わらず常陸国松岡へ減転封されてしまう(戸沢氏は後に幕府に接近し、大阪夏の陣で江戸城の留守居役を命じられる等、外様大名から譜代大名へと変貌を遂げる。1622年には最上氏の改易を受けて、譜代大名鳥居氏の一党として、角館に比較的近い新庄へ加増転封される)。 1602年に佐竹義宣が秋田に転封してくると、角館城には弟芦名義勝が入城するが、1622年に一国一城令発令に伴い廃城となる。 芦名氏は屋敷を南麓に移すが(義勝夫人が城中で妖怪を視たため居館を麓に移したという伝承もあり、廃城前から政庁としての機能は城山から麓に移っていたと思われる)、1656年に断絶。代わりに佐竹義隣が出羽長野紫島城から角館へ入部し、以後明治まで続いた。 |
感想 |
角館城は、武家屋敷通りとして知られている通りを北上し、国道46号線を右折して暫く進んだところに城址の入口があり、そこから山を登ると主郭に行き着く。 主格への道は2つあり、一つは車も通れる車道、もう一つは歩いてでしか上れない登山道である。 自分が2012年6月訪れた時は車道がチェーンで閉鎖され、「関係者以外立ち入り禁止」となっていたので、横にある登山道を上がるしかなかった。 古城山は標高166メートルとされるが、比高は100メートルで、計算上は70メートル程度登れば山頂である主郭に到達する事になる。 山に切り惹かれた道とあって、登るのでは楽ではないが、それなりに整備されている事もあり、スニーカー程度の靴でも主郭に辿り着ける。 整備がなされているらしく、主郭は芝が広がる広場となっていて、それなりの広さがあり城の規模が窺える。 主郭には石碑が建てられている。 主郭の隣に、一段低い郭(二の郭がある)。 主郭からは車道が通じていて、そのまま下山出来る。車道を下ったところ、チェーンで閉鎖されていたところに行き当たった。何故閉鎖されていたのかは不明。 武家屋敷通りがあるからには、角館には城があるのだろうと調べてみたら、案の定城があった。 武家屋敷通りには数々の武家屋敷が残り、多数の観光客が行き来していたが、角館城址は「城」としての整備がなされていない為か、訪れる人はなかった(桜の季節には観光客も多数訪れるそうだが)。 江戸時代初期に既に廃城となっている事を考えると、城が寂れているのは当然といえば当然。逆に、何故角館が武家屋敷が建ち並ぶ程栄えたのか、不思議に思う。 |
登山口入口。登山道 主郭。天然記念樹の姥桜。主郭(奥に石碑) 石碑。主郭土塁。主郭から望む角館町 主郭の下にある郭らしき広場(二の郭)から望む主郭土塁。主郭から望む角館町。主郭へと続く車道 古城山。城址入口 登山口入口。主郭 主郭。石碑 主郭から望む角館町。主郭の下にある郭らしき広場から望む主郭土塁 |