三の丸石垣(北西から)。本丸石垣。腰曲輪石垣 |
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別名 |
不来方城 |
所在地 |
岩手県盛岡市内丸 |
種類 |
連郭式平山城 |
築城者 |
南部信直 |
築城年 |
1598年 |
遺構 |
石垣、土塁、堀、移築土蔵・門 |
初訪問 |
2012年6月 |
備考 |
盛岡城は盛岡藩南部氏の居城。 西部を流れる北上川と南東部を流れる中津川の合流地にあった花崗岩丘陵に築城された連郭式平山城である。 本丸の北側に二の丸が配され、本丸と二の丸の間は空堀で仕切られていた。更にその北側に三の丸が配され、本丸を囲むように腰曲輪、淡路丸、榊山曲輪が配された。縄張りは、豊臣期の大坂城の構造に似ている部分がある。本丸には天守台が築かれたが、幕府への遠慮から天守は築かれず、天守台に御三階櫓が建造され代用とされた(現在の視点では、名実共に天守だろう)。 白い花崗岩で組まれた石垣は、土塁の多い東北地方の城郭の中では異彩を放っている。 三戸に拠点をおいていた南部信直は、豊臣秀吉の奥州仕置により、 1590年岩手郡等の領地7郡の領有が承認された。信直は盛岡城築城に着手し、新たな街作りを行い、盛岡藩の城下町として現在の都市基盤を整備した。その時点で「不来方(コズカタ)」の地名を改め、「盛岡」とした。 城は何度か修復されている。石垣の一部はそれに伴って積み直されていて、時代によって石の積み方が異なる。 御三階櫓を始め、幕末にも多数の建物が残っていたが、維新後の1874年、ほぼ全てが取り壊された。 ただ、石垣は殆ど残され、史跡8.6ヘクタールを中心に岩手公園となった。 |
感想 |
盛岡城は、JR盛岡駅から700メートル程度離れたところにある。 県民にとって「岩手公園=盛岡城」は常識なのだろうが、県外の者からすると分かり辛く、行ってみて初めて城跡だと気付く観光客もいるという。知名度を上げる為に、「岩手城跡公園」等への名称変更が検討されているらしいが、市民からすれば長年親しまれてきた「岩手公園」の名称を変える事に反発もあるとか。 城は全域無料で公開されている。 本丸・二の丸・三の丸・淡路丸等、ほぼ全てが石垣で固められたその姿は、土塁の城が多い東北では異彩を放つ(弘前城も、総石垣造りなのは本丸くらい)。 ただ、南部氏は石高10万石の大名に過ぎなかった為か、城の規模は必ずしも大きくはなく、曲輪は弘前城や久保田城より狭く感じる。 |
三の丸石垣。三の丸石垣(奥に二の丸石垣)。三の丸跡にある櫻山神社 三の丸石垣 三の丸石垣。三の丸内 三の丸 三の丸から二の丸へと続く道。二の丸。二の丸と本丸を結ぶ橋(築城当時は廊下橋だったらしい) 本丸石垣(下は濠ではなく、腰腰曲輪)。本丸から望む二の丸。南部家42代の銅像があった場所(銅像は大戦に供出されてしまった) 本丸内 本丸。本丸から淡路丸へ移動。淡路丸から見た本丸石垣 本丸石垣。本丸石垣(奥に橋)。淡路丸から見た二の丸石垣 二の丸石垣。二の丸石垣。二の丸石垣(奥に三の丸石垣) 広場から望む本丸石垣 淡路丸から望む本丸石垣 淡路丸石垣 唯一の現存建築彦御蔵(移設されたらしい)。淡路丸石垣 淡路丸。榊山曲輪石垣 広場東にある小川。三の丸にある櫻山神社。下曲輪の濠と土塁 盛岡城の図 三の丸石垣 二の丸への入口。本丸石垣と二の丸石垣 二の丸石垣。本丸石垣 二の丸石垣。二の丸石垣(奥に本丸石垣) 二の丸石垣(奥に本丸石垣) 広場から望む本丸石垣 本丸石垣 淡路丸から望む本丸石垣 淡路丸から望む本丸石垣 淡路丸から望む本丸石垣。淡路丸石垣 彦御蔵 淡路丸石垣 淡路丸石垣 榊山曲輪石垣から望む本丸石垣。榊山曲輪石垣 二の丸石垣(左)と本丸石垣(右) 櫻山神社の烏帽子岩。広場東側にある小川 |
外郭南門(復元)。外郭南門。外郭築地塀の矢倉 |
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別名 |
斯波城、紫波城、志和城 |
所在地 |
岩手県盛岡市紫波 |
種類 |
古代城柵 |
築城者 |
坂上田村麻呂 |
築城年 |
803年 |
遺構 |
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初訪問 |
2012年6月 |
備考 |
志波城は、岩手県盛岡市の西の郊外、現在の中太田・下太田にまたがる地域にあった古代城柵。 外郭は1辺840メートル四方で、築地塀に囲まれ、60メートル間隔で矢倉(櫓)が設置された。 規模的にはより著名な古代城柵多賀城(宮城県)とほぼ同じで、中核となる政庁においては多賀城を上回る規模だったとされる。 征夷大将軍坂上田村麻呂によって造営された志波城は、陸奥国最北の城柵であり、朝廷の文武支配が及ぶ最前線基地としての機能を担った。 しかし、北側に沼沢地が入り組んでいた事により洪水に度々見舞われ、城は壊滅的な打撃を受ける。南へ下った現在の岩手県紫波郡矢巾町徳田に徳丹城が代わりに造営され、約10年で役割を終えた。 志波城の所在は長らく不明だったが、1970年代の東北自動車道建設に伴う発掘調査中に築地塀や大溝、竪穴住居跡が発見され、調査の結果志波城のものである事が判明。 1991年から盛岡市によって、外郭南門と築地塀が古代の技術にならって復元され、「志波城古代公園」として志波城跡愛護協会により管理運営がなされている。 |
感想 |
盛岡城を訪れた後、近くの観光案内所を訪れてみた。 常備されたパンフレットの中に志波城古代公園のものがあった。 パンフレットの案内によると盛岡駅からバスで行ける距離にある、という事だったので、行ってみる事に。 パンフレットの案内通りにバスに乗り込んだつもりだったが、別路線のバスに乗り込んでしまったらしく、イオンで下りる羽目になった(そこが終点だった)。 このまま盛岡駅に戻る事も検討したが、折角ここまで来てとんぼ返りするのも勿体無かったので、徒歩で向かう事に。 手持ちの地図(観光案内図で、詳細でなく、しかも志波城古代公園が載っていない)とパンフレットを照らし合わせ、足を進めると、志波城古代公園への道しるべが見付かったので、それに沿って2キロ程歩くと(途中に道しるべは無し)、志波城古代公園に到達。 だだっ広い平野に外郭築地塀が250メートルにもわたって復元されていて、その姿には圧倒される。 矢倉や門等も復元されていて、構造的には上る事も可能の様だが、安全を考えてか非公開になっている。 政庁も築地塀の一部が復元されているが、中は建物跡が色違いの砂利で区画化されているだけで、建物の復元はない。 古代の城も、戦国時代の城も、近世の城も同じ「城」という文字が現在は当てられてしまっているが、その目的や構造や機能は勿論、概念すら異なる事が分かる。 その一方で、近世の城に通じる部分も見受けられ、「城」の基本的な部分はどの時代も同じなんだな、と思わせる。 公園は、バスの始点終点になっていて、帰りはきちんとバスに乗って盛岡市中心部に戻れた(やけに遠回りばかりする路線で、料金がガンガン加算される割にはなかなか目的地の駅に戻らなかった為、途中の県庁前で下車した)。 |
外郭南門。築地塀。外郭南門から南大路を望む 外郭南門を城内から望む 政庁南門。政庁南門。政庁東門 政庁西門から東門を望む。政庁西門。外郭南門 外郭南門の梯子(構造上は上れるらしいが、非公開)。外郭南門と築地塀と矢倉。土塁 外郭南門 外郭南門。築地塀と矢倉 外郭南門、築地塀、矢倉 外郭南門 外郭南門から望む南大路。城内から見た築地塀 城内から見た外郭南門 管理小屋(建物跡が色違いの砂利で区画化されている)。政庁南門 築地塀は全て復元されておらず、並木で区画化している 政庁西門。城内から見た外郭築地塀と矢倉 矢倉。外郭南門 城外から見た築地塀、外郭南問。土手 |
本丸西御門。時鐘堂。円城寺門 |
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別名 |
鳥谷ヶ崎城、十八ヶ崎城 |
所在地 |
岩手県花巻市花城町 |
種類 |
平山城 |
築城者 |
稗貫氏 |
築城年 |
1591年 |
遺構 |
時鐘堂、円城寺門 |
初訪問 |
2012年6月 |
備考 |
花巻城の前身となる鳥谷ヶ崎城を築いたのは稗貫氏である。稗貫氏は本城として栄えたが、豊臣秀吉の小田原征伐に際して参陣しなかった為、領地を没収されてしまう。 入れ替わりに南部氏の家臣北秀愛が城代として入城すると、城の名を花巻に改め、本丸・二の丸・三の丸から成る近代城郭と、城下町を整備し始める。しかし秀愛は1598年に死去し、替わって父の信愛が城代となる。 1600年、関が原の戦いに伴って南部氏が慶長出羽合戦へ出陣している隙を狙い、和賀義忠の遺児忠親が一揆を起こした(岩崎一揆)。和賀勢は三の丸、二の丸を攻め落としたものの、信愛(既に70歳を超えていた)は十数名の兵と共に本丸に立てこもり、援軍が来るまで持ち応えた。 信愛が1613年に死去した後、南部利直が次男政直に2万石を与え花巻城主とする。政直は花巻城を近世城郭として完成させた。その際に本丸に二層二階の櫓や多くの重層の城門が建てられた。一国一城令の後も、南部の抱え城として存続を認められた。 政直急死以後は城代が置かれ、花巻城は和賀・稗貫二郡を統括する政治の中心地となったが、1869年に廃城となって取り壊された。 |
感想 |
花巻市は、城より同市出身の童話作家宮沢賢治を推している感があり、城から徒歩10分程度の距離にあるJR花巻駅でも殆ど取り上げられていない。 地図上では、花巻駅から県道116号線に沿って進むだけで花巻城跡に到達するが、実際に歩いてみると途中で道が三叉路になっていて、しかもその中で県道116号線が最も寂れた感のある道とあって(しかも下り坂)、進むべき道を誤ってしまう。 自分の場合、途中で道を間違った事に気付いて駅前近くまで戻る羽目に(後に、そこまで戻らなくても良かった事を知る)。 自分が購入したガイドブックでは、地図にこそ載っているものの本文には全く説明がないくらいなので、城跡には何も残っていないんだろうな、と覚悟していたが……。 いざ城跡に到着すると、本丸跡が公園として整備され、西御門が復元されている等、城跡としての体制は整っている(全国にはこれより整備されていない城はいくらでもある)。 一方、二の丸・三の丸は市街地と化し、所々に「〇〇跡」という表示が見られるものの、痕跡は残っていない。 現存建築には円城寺門あるが、これは本丸となっている公園から300メートル程の距離がある。 西御門の櫓の切妻屋根を目にした時、「本当に忠実に復元したものなのか?」と疑っていたが、円城寺門も切妻屋根だったので、納得。 他の建築はどうだったのか、と思う。 もう一つの現存建築である時鐘堂は、本来は本丸の直ぐ南にある二の丸にあったが、現在は400メートル程南西にある市役所前の大手門跡近くに移築されている。 |
馬出への入口。馬出内。馬出から望む本丸 馬出から望む本丸 馬出から望む本丸西御門(復元)。本丸西御門。本丸跡 本丸内から望む本丸西御門。本丸南部の金楼堂下御堀。御台所前御門跡 本丸跡。本丸跡南部の土塁。菱櫓跡 円城寺門(現存建築)。円城寺近くの土塁。濁御堀跡(埋め立てられて駐車場になっている) 大手門跡。時鐘(本丸南部の二の丸にあったが、大手門跡近くに移築)。時鐘 本丸跡への道 馬出跡。馬出跡から望む本丸石垣 馬出跡から望む本丸石垣 馬出跡から望む本丸石垣 馬出跡。本丸西御門 本丸西御門。本丸西御門(本丸内から望む) 本丸。本丸西御門(本丸内から望む) 本丸西御門(本丸内から望む)。武具蔵跡 御囲御堀跡。本丸南部の金楼堂下御堀 二の丸跡にある武徳殿。駐車場となっている二の丸跡 御台所前御門跡。本丸跡 菱櫓跡。本丸跡 円城寺門 |
三の丸から本丸へ通じる道。三の丸 三の丸の奥にある「なべくら展望台」(自動音声が流れるようになっていて、出る際突然作動して驚いた) |
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別名 |
横田城、新横田城 |
所在地 |
遠野市遠野町 |
種類 |
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築城者 |
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築城年 |
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遺構 |
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初訪問 |
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備考 |
鍋倉城は、遠野盆地の南方にそびえる物見山のふもとの独立丘陵である鍋倉山(標高340メートル)に築かれた山城。 中央に本丸(120メートル×24メートル)が位置し、空堀を挟んで南方に二の丸(88メートル×45メートル)、本丸の北東に三の丸(135メートル
×29メートル)がある。 中世からの豪族阿曽沼氏の居城である。 阿曽沼氏は始め横田城(遠野市松崎町横田)を本拠地としていたが、度々洪水の被害に遭った為、広郷の代に、本拠地を鍋倉山に移した。鍋倉城は阿曽沼氏の旧居城の名を受けて横田城とも、新横田城とも呼ばれた。 阿曽沼氏は1590年の豊臣秀吉による小田原攻めには参陣しなかった為改易こそ免れたものの三戸城主南部信直の支配下に組み込まれてしまう。1600年の関ヶ原の戦の時、阿曽沼広長は南部利直に従い最上に出陣したが、留守中に阿曽沼一族の鱒沢氏に叛乱を起こされ、城に戻れなくなってしまった。叛乱は、鱒沢氏を南部氏がそそのかした事から起こったとされる。 広長は、南部氏の関係が元々良くなかった事もあり(だからこそ南部氏は鱒沢氏に叛乱をそそのかした)、南部氏の宿敵伊達政宗を頼る。伊達氏の支援を受けた広長は遠野郷を奪回しようと試みるが、鱒沢氏が南部氏の支援を受けていた為、苦戦。漸く叛乱の首謀者であった鱒沢広勝を討ち取るが、伊達氏の元へ走った広長を快く思わなかった遠野の阿曽沼一族は、本来主君である筈の広長に対し徹底抗戦。 その結果広長は撤退を強いられ、遠野奪還を夢見ながら仙台で失意の中没する。 鍋倉城は、広勝の子忠右衛門の城となる。忠右衛門は南部氏の家臣となるが、後に謀反を企てたとして南部利直から切腹を命じられる。鱒沢氏が改易になった事により、中世遠野を支配した阿曽沼氏は完全に消滅する(全体の経緯を見ると、南部氏が阿曽沼氏を一族同士で戦わせて宗家を遠野から追い出し、勝ち残った分家を粛清して遠野を乗っ取った事になる)。 阿曽沼氏残党による治安の悪化や仙台藩との藩境である重要性を考え、南部利直は南部直義にこの地を支配させる事とする。直義は1627年に遠野に入部し、以後240年あまりの遠野南部氏1万2500石の時代が明治維新まで続く。 |
感想 |
鍋倉城は、JR遠野駅の駅前通を真っ直ぐ進んだところにある市立博物館の裏にある小高い山に位置する。 距離にして400メートル程度。 山は登山道が整備され、三の丸までは比較的楽に登れる(標高は340メートルとなっているが、登山口からの比高は100メートルちょっと。スニーカーでも上れる。自動車でも行けるようになっているらしい)。 三の丸から本丸までの距離はほんの数十メートル。 三の丸は桜の名所としてきちんと公園化されている一方で、本丸は全く整備されておらず、草木が伸び放題で、案内板までの通路が辛うじて刈られている程度。本丸跡全体を見渡す事は可能だが、背丈程に伸びた草に阻まれ、奥にある石碑らしきものに近付く事すら出来なかった。 遠野は「民話の町」を売りにしているらしく(河童のキャラが至る所にあった)、城下町としてのPRにはあまり力を入れていないようである。 |
三の丸にあった図 駅前通から望む鍋倉山。中腹にある南部神社。山道 展望台から望む遠野市。三の丸跡。三の丸から本丸への道 本丸へ通じる道。道を振り返ったところ。本丸 駅前通から望む鍋倉山。中腹にある神社。山道 山道。三の丸 三の丸で見られる土塁。展望台から望む遠野市 三の丸。三の丸から本丸への道 本丸へ通じる道。道を振り返ったところ 本丸にある説明板。本丸 本丸への道を振り返る。本丸の土塁 |
八戸市役所近くにある石碑。角御殿表門 |
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別名 |
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所在地 |
青森県八戸市 |
種類 |
平城 |
築城者 |
南部利直 |
築城年 |
1627年 |
遺構 |
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初訪問 |
2012年6月 |
備考 |
八戸城は、八戸南部氏により八戸城根城の支城として築城されたのが始まりとされる。奥州仕置き以降、八戸南部氏は三戸南部氏に従属(戦国時代の南部一族には「宗家」と呼べる勢力が存在せず、互いに戦い合っていたらしい)。盛岡藩成立後の1627年、盛岡城の支城である遠野城に移封される。その結果八戸領は盛岡藩の直轄地となる。 盛岡藩は、八戸城を新たな拠点として城を改修し、城下町を建設する。 1664年に南部直房が八戸藩を2万石で立藩すると、城は更に改修される。ただ、八戸藩は城持大名では無かった為、この時点では大規模な城郭は築城出来ず、陣屋構えに留まった。 1838年に8代藩主南部信真の代に北方沿岸警備の功により、城主格に取り立てられ、改めて八戸城となる。 1872年に廃城となり、建物はほぼ全てが取り壊される。 城は本丸と二の丸から成っていて、本丸跡は現在三八城公園と三八城神社になり、面影が僅かながら窺えるが、二の丸は市街地と化し、その様子を確認出来なくなってしまっている。 |
感想 |
本丸跡とされる三八城公園は、JR本八戸駅(新幹線駅の八戸駅とは別の駅)の目と鼻の先の高台にある。 よく写真で紹介される「八戸城跡」の石碑は、三八城公園と三八城神社から少し南に下った八戸市役所の前にある。 三八城公園はそれなりの広さがあり、城としての充分以上の機能を持っていたと推測されるが、遺構らしき遺構は一切ない。長年「陣屋」扱いで、江戸末期に漸く「城」に格上げされた経緯を考えると、止むを得ないのかも知れない(名義上「城」に格上げされたからといって、大改築して名実共に「城」にしよう、という考えは最早生まれなかっただろう)。 土塁らしき痕跡は見られるが、本物の遺構なのかは分からない。 現存建築としては、市役所の真向かいにある角御殿表門がある(現・南部会館表門)。 |
古図と現在の市街地を重ね合わせた図 三八城公園入口にある本丸跡の石碑。三八城公園内 三八城公園。南部直房像 三八城神社。角御殿表門 三八城公園入口にある本丸跡の石碑。三八城公園内 三八城公園内 三八城神社。八戸市役所近くにある石碑 角御殿表門 角御殿表門 |
呉地方総監部の門の外から見た城山城 呉地方総監部(城山グランド)から見た城山城 |
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別名 |
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所在地 |
広島県呉市幸町(呉地方総監部内) |
種類 |
丘城 |
築城者 |
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築城年 |
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遺構 |
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初訪問 |
2012年7月 |
備考 |
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感想 |
呉地方総監部の敷地内にある。 入口の直ぐ横にそびえているので、自由に望めるが、場所柄踏み入る事は難しい。 初訪問から僅か1週間後、呉地方総監部でサマーフェスタというお祭りを開催していたので、行ってみる事に。 城山城跡に近付けるかな、と期待したが、ロープで接近を阻止していた。 石段があるので、一応上れるようにはなっている。 上り口辺りは石垣で固められ、さながら近世城郭っぽく見えたが、時代からして有り得ないと思うので、かなり後に築かれたと思われる(一部の石垣の積み方は城郭っぽくない)。 |
呉地方総監部の門の外から見た城山城 呉地方総監部(城山グランド)から見た城山城 |
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別名 |
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所在地 |
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種類 |
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築城者 |
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築城年 |
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遺構 |
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初訪問 |
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備考 |
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感想 |
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