津村巧の

城巡り

TAKUMI TSUMURA'S

CASTLE GUIDE

 

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017

 

長山城

築山館

大内氏館

高嶺城

菊ヶ浜台場

前大津宰判勘場

亀山城

倉敷城

新見陣屋

上山城

内城

清水城

浜崎城

東福寺城

祗園之洲砲台

 

 

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長山城

 

  

毛利敬親公の像。山頂の公園。城跡から望む瑠璃光寺五重塔

 

別名

 

所在地

山口県山口市亀山町

種類

山城

築城者

毛利氏

築城年

 

遺構

 

初訪問

2012年8月

備考

 正確な築城年代は不明。

 1588年に、毛利氏は仁保元忠を城番として長山城に置く。

 1596年に、毛利秀元は長門国を与えられ、長山城を居城とするべく改修し始める。

 しかし、1600年の関ヶ原合戦によって毛利氏が防長2ヶ国に減封となったのに伴い、秀元も長府に移る事となり、長山城は廃城となった。

 現在は亀山公園として整備され(6ヘクタールあるという)、毛利敬親公(長州藩第13代藩主)の像が建つ。ただ、江戸時代初期に廃城となってしまったので、遺構を確認出来ない。

 亀山公園の南にはザビエル記念聖堂が建つ。

感想

 JR山口駅と県庁を結ぶパークロード沿いにある亀山公園が長山城がある。

 よく街中にこれ程の緑地が残されたな、と感心するが、山口市は結局大都会として発展する事がなかったので(明治維新の関係者を多く輩出したにも拘わらず)、開発されずに残ったと思われる。

 山は高さ50メートルもなく、道もそれなりに整備されているので、上るのは楽。

 山頂は広い台地になっており、城が置かれていても納得出来る地形になっている。それなりに開けており、市内を見渡せる。

 ただ、公園としての整備はなされているものの、城跡としての整備は全くなされていない。

 

  

登山口。山頂の公園。土塁跡(かも知れない)

 

  

山頂の公園。毛利敬親公の像

 

  

山頂の公園。土塁跡(かも知れない)

 

 

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築山館

 

   

築山神社

 

別名

 

所在地

山口市山口市上堅小路

種類

居館

築城者

大内義弘

築城年

室町時代

遺構

土塁

初訪問

2012年8月

備考

 築山館は、山口に居館を移した大内弘世の子義弘により、別館として築かれた。

 大内氏は弘世の代には周防一国の守護に過ぎなかったが、義弘の代になると周防・長門・豊前・筑前の守護となっていて、大内氏館(大殿大路)が手狭になり、北側に築山館を築いた。

 1551年、重臣陶隆房が大内氏の重臣杉重知・内藤興盛らを味方にひきいれて謀反を起こし、築山館にいた大内義隆を襲った。

 義隆は山口を逃れて長門国美祢郡岩永へ落ち延びるが、長門深川の大寧寺で自刃する。

 大内氏は、陶晴賢によって擁立された大内義長(大友宗麟の弟)が引き継ぐが、1557年に毛利元就によって攻められ、長府の長福寺にて自刃する(享年26)。

 義長の死に伴い、大内氏は完全に滅亡し、防長両国は毛利氏の所領となった。

 現在、館跡は八坂神社と築山神社の敷地となっている。

感想

 現在は八坂神社と築山神社となっているので、地図にも記載されており、行き着くのに苦労しない。

 石碑や案内板もあり、分かり易いが、敷地内はひたすら神社(二つの神社が併設されている)で、館の遺構は残っていない。

 土塁が一部残っているとされるが、それも元々石垣だったものを幕末の山口城築城の際に石を転用した結果そうなってしまった訳で、「遺構」と呼べるかも定かでない。

 

  

神社の駐車場となった敷地。築山神社

 

  

築山神社の隣にある八坂神社

 

  

八坂神社。八坂神社から築山神社を望む

 

 

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大内氏館

 

  

龍福寺。寺内にある供養塔。復元された西門

 

別名

 

所在地

山口県山口市大殿大路

種類

居館

築城者

大内弘世

築城年

1360年

遺構

 

初訪問

2012年8月

備考

 1360年頃に大内弘世によって築かれたと云われる。

 弘世は京に似た山に囲まれた盆地として山口を選地し、館を築いた。以降大内氏9代の居城となる。

 大内氏の領国は中国・九州地方まで及んだため、山口は西日本の政治経済の中心地となった。

 1551年に大内義隆が重臣陶晴賢によって討たれると、大内氏は急速に弱体化。

 結局、毛利氏によって滅ぼされ、館跡には龍福寺が建立され、現在に至る。

 現在は発掘調査が進み(2012/08に訪れた時も、何やら調査を行っていた)、土塁や枯山水の庭園、池泉等が復元されている。

 ただ、寺の敷地となってしまっている為、「館跡」と言われてもピンと来ない。

感想

 龍福寺への入口は、築山館から100メートル程離れたところにあるが、敷地自体は隣り合わせで、館が二つあったというより、後に築かれた築山館が大内氏館の拡張部分だったといえる。

 

  

復元された東側土塁(手前の砂利は濠の跡を示している)。西門。西門近くの石組溝

 

  

復元された土塁。境内

 

  

龍福寺

 

  

龍福寺

 

  

龍福寺。東側の土塁

 

  

東側の土塁。建物基礎跡

 

  

東側にある庭園(復元)

 

  

北側の土塁。西門

 

 

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高嶺城

 

   

山口県庁(山口城跡)から望む高嶺城

 

別名

鴻の峰城、鴻之峯城

所在地

山口県山口市上宇野令字高嶺

種類

山城

築城者

大内義長

築城年

1556年

遺構

 

初訪問

2012年8月

備考

 高嶺城の築城を始めたのは、戦国大名大内氏最後の当主、大内義長である。

 大内義長は、1551年に陶晴賢らに迎えられて当主となったが、1555年の厳島の戦いで陶晴賢が敗れて自害。大内氏も壊滅的な被害を受けた。これに乗じて攻勢に打って出る毛利氏に備えるべく、1556年に高嶺城築城が開始される。

 翌年、毛利氏が山口に侵攻。義長は未完成の高嶺城に籠城するが、結局長門国の且山城へと逃れ、その地で自害する。これにより、大内氏は滅亡する。

 大内氏滅亡後、高嶺城の築城は毛利氏によって再開され、完成を見た。城代として吉川氏の一門が入り、毛利氏による山口支配の拠点となった。

 1569年、豊後国の戦国大名大友宗麟の支援を得た大内輝弘は、豊後国より周防国へ侵攻した。大内氏残党の支援も得た輝弘は山口を制圧し、高嶺城を攻撃した。城主が夫妻であった為、城主の妻が指揮を執り奮戦。輝弘は城を落とせず、最終的には九州より反転してきた毛利軍の前に敗北し、自害する。

 1600年の関ヶ原の戦いの結果、毛利氏は周防・長門の2ヶ国に減封された。毛利輝元は新たな根拠地の候補地として、長門国萩の指月山と、周防国防府の桑山と共に高嶺を幕府に提出したが、幕府は要地である山口への拠点移動を許可しなかった。結局、萩城が毛利氏の本拠となる。

 一国一城令により、1638年に廃城となった。

 幕末には、城址が山口城の詰めの城として使用された。

感想

 山口城跡である山口県庁の側にそびえる山が高嶺城跡。

 高さ338メートルある。

 登山道は整備されているものの、晴天下でないと上れない。

 

 

 

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菊ヶ浜台場

 

  

土塁上部。土塁何面。土塁北面

 

別名

菊ヶ浜土塁、女台場

所在地

萩市大字今魚店町

種類

土塁

築城者

 

築城年

1863年

遺構

 

初訪問

 

備考

 1863年、長州藩が攘夷決行として関門海峡を通過する外国船を砲撃するが、反撃され、大損害を被る。

 これを機に、萩藩は外国船の来襲に備えて菊ヶ浜に土塁の築造を住民に命じた。武士たちの留守を預かる老若男女たちは、身分や貧富を問わず奉仕作業する。滅多に外に出る事のなかった武士の妻や奥女中までが参加した事から、通称「女台場」と呼ばれる様になった(地元では寧ろ「女台場」と呼ばれる事が多いらしい)。

 現在、高さ3メートル、幅12メートルの土塁が50メートルにわたって残っている。

感想

 萩のホテルで自転車を借りられたので、萩城に一直線に向かうのではなく、ここへ寄り道。

 パッと見には芝生に覆われた公園が広がるばかりだが、よく見ると土塁がよく残っている。

 土塁は真っ直ぐではなく、折れ曲がっている様である。

女台場」は、「オナゴダイバ」「オンナダイバ」とも読まれる。

 台場周辺には民家が建ち並び、浜から若干距離があるが、民家や木々の間から日本海が望める。

 

  

入口。土塁全貌(東から西を望む)

 

  

土塁上部。日本海が望める

 

  

土塁上部(西から東を望む)。土塁北面(海側)

 

土塁上部から日本海を望む

 

 

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亀山城

 

  

 

別名

 

所在地

山口県長門市東深川

種類

丘城

築城者

鷲頭弘忠

築城年

室町時代中期

遺構

 

初訪問

2012年8月

備考

  室町時代中期に鷲頭弘忠によって築かれたと云われる。鷲頭氏は大内氏の庶流で、大内氏16代盛房の三男盛保が周防国鷲頭庄の地頭となって鷲頭氏を名乗った事に始まるという。

 1441年、大内氏の第12代当主大内持世が死亡し、大内教弘が跡を継いだ。

 元々同族でありながらも、鷲頭氏当主の弘忠と教弘は不仲だったらしく、弘忠は1446年に守護代の任を解かれてしまう。この間に、弘忠と父である弘為は本拠である深川城の周辺に支城を築き、教弘の攻撃に備えた。

 弘忠は、教弘が深川城の北側へ水軍をもって侵攻すると考え、この亀山城を築いて備えた。

 が、教弘は深川城の南側(現在の美祢市方面)から侵攻し、鷲頭氏家臣の刺賀政頼の居城である堅田城や沢差城などを落城させ、搦手から深川城に迫った。せっかく築いた亀山城は完全に無駄に終わってしまったのである。

 1448年、深川城は遂に陥落。弘忠はもとより、その息子の鷲頭弘貞を含む一族郎党全てが殺されたという。

 その後、亀山城には日置氏が入城したが、廃城となった。

 現在、亀山城跡は「古城山」と呼ばれているが、整備は全くなされておらず(上るのも難しいらしい)、山だけが残っている。

感想

 JR長門市駅から徒歩10分程度距離の長門市役所の直ぐ側にあるので、城跡自体は直ぐ見付かる。高さ20メートルちょっとの丘なので、上ろうと思えば簡単に登れそうである。

 ただ、何しろ城としての整備が全くなされていないので、どうやって上がるのか、果たして上がれるのかも不明。

 開発はなされていない様子なので、遺構自体はそれなりに残っていそうである。

 

  

 

  

 

 

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前大津宰判勘場

 

 

別名

 

所在地

山口県長門市東深川

種類

代官所

築城者

 

築城年

1751年

遺構

 

初訪問

2012年8月。

備考

 1751年に、萩藩によって設けられた宰判勘場の一つ。

 勘場が廃止された後、大津郡役所になった。

感想

 亀山城の側にあるので、お得な存在。

 ただ、長門市役所の側に石碑が建っている、との事だったが、発見出来ず。

 

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倉敷城

 

  

石碑。代官所の遺構とされる内濠。敷地は現在倉敷アイビースクエア(倉敷紡績創業旧工場跡地)となっている

 

別名

倉敷山城(クラシキヤマジョウ)、小野城(オノジョウ)、小野ヶ城(オノガジョウ)、小野が城

所在地

岡山県倉敷市本町

種類

丘城

築城者

小野氏

築城年

 

遺構

内濠(代官所遺構)

初訪問

2012年10月

備考

 倉敷城は、現在の倉敷アイビースクエア(倉敷紡績創業旧工場跡地)がある場所にあった小山に築かれていた。そんな事もあり、一体は古くは「城の内」と呼ばれていたという。

 小野氏は一帯で代々城主を勤めていたが、関が原後、小野氏は城を幕府に差し出す。これを機に、倉敷は天領となった。

 城のあった小丘には幕府代官の陣屋が建てられた(倉敷陣屋)。1744年に倉敷陣屋は廃止され、倉敷城・陣屋のあった城山の南側に丘を取り込む形で倉敷代官所が建設され、倉敷代官による一帯の幕府領の支配の拠点となる。

 旧城主の小野氏は、江戸期には倉敷村の庄屋を務めた。

感想

 城は現在の倉敷アイビースクエアがある場所にあった小山に築かれていた、との事だが、その城山は明治時代に入った時点で倉敷紡績創業の工場が建てられるのと同時に切り崩されてしまったらしく、一帯は平地で、城の面影は全く見られない。

 現地においては、城があった事を示す唯一の証拠は、アイビースクエア内の代官所の石碑の横に立てられた案内板の説明のみである(「倉敷城」としてではなく、「小野が城」として紹介されている)。

 

  

 

  

 

 

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新見陣屋

 

近くの城山公園から陣屋方面を望む

 

別名

 

所在地

岡山県新見市新見

種類

陣屋

築城者

関長治

築城年

1697年

遺構

石垣

初訪問

2012年12月

備考

 新見陣屋は、1697年)関長治によって築かれた。 関長治は美作国津山藩主森長継の子で、宮川藩主関長政の養子となり家督を継いで2代藩主となったが、1697年に美作国津山藩森氏が改易となると備中国新見一万八千石で転封となった。

 1753年)に藩校思誠館を建設し、これが現在の思誠小学校の前身である。

 思誠小学校の入口付近に案内板があり、その脇に石垣が残っている。更に、小学校と高校の間に石段と石垣が残っている。

感想

 近くに「城山公園」という公園があるので(JR新見駅の東にある)、そこが陣屋跡かと思い、上がってみた。

 これといったものは見られず、こんなものかと思っていたところ、後々調べたら公園は「ジョウヤマコウエン」であって、陣屋とは全く無関係だと知った。

 陣屋跡は、公園から更に東に進んだところに位置する学校だと知ったが、後の祭り。

 仮に学校まで行けたとしても、年始年末で閉鎖されていて、立ち入るのは不可能だったと思われる(立ち入る際は、学校の許可が必要で、訪問した者によると手続き等でえらく苦労するらしい)。

 

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上山城

 

ドン広場内

 

別名

上之山城

所在地

鹿児島県鹿児島市城山町

種類

山城

築城者

上山氏

築城年

1352年

遺構

土塁

初訪問

2013年4月

備考

 上山城は、1352年に豊後国緒方から来た土豪の上山氏によって築かれた。

 それから間もなく島津氏が薩摩に入ると、上山氏は、島津氏の力に屈して桜島に居を移し、上山城は廃城となった。

 約250年後の1601年、島津家久によって上山城の東麓に鶴丸城が築かれ薩摩藩の拠点となった。上山城のあった城山は、詰めの城となる(上之山城とも呼ばれるように)。島津一門日置家の島津常久が城代として入ったものの、常久が1614年に早世した後は代わりの城代は任命されず、上山城は立入禁止となってしまう。その結果、現在も見られる樹木が繁茂する原生林に戻っていった。

 1877年には西南戦争で西郷隆盛が籠って最後の激戦が行われた。

 現在は城山公園として整備されて、徒歩の他自動車で登る事も可能。この公園整備の時に駐車場も作られた。この為、この区域にあった上之山城の城郭部は破壊されて残っていない(整備を推進した連中は先見性に欠ける馬鹿だったに違いない)。

感想

 城山公園の「ドン広場(江戸時代、ここで時報の大砲をドカンと鳴らしていたという)」と称される広場が上山城の主郭とされる。

 郭内はただの公園となってしまっているが、その周りには土塁らしき遺構(当時のものかは不明)が見られる。桜島が望める展望台とは別方向にある為か、人影は少ない。偶に何も知らない観光客がやって来て、単なる公園しかないと知って引き返す。

 鹿児島市の観光では、城山公園の展望台を訪れる事になると思われるので、ついでに足を運ぶ分には問題ないと思われる。

 

  

ドン広場内

 

  

展望台のある山(そこも上山城の一部だったらしい)。展望台から望む桜島

 

 

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内城

 

  

入り口。城内(校内)

 

別名

御内、水上城、大龍寺城

所在地

鹿児島県鹿児島市大竜町

種類

平城

築城者

島津氏

築城年

 

遺構

 

初訪問

2013年4月

備考

 伊作島津家は忠良の時代に勢力を伸ばし、嫡男貴久が本家の養子になった事で島津本宗家を相続した。

 島津本宗家がそれまで使用していた清水城が手狭になったので、海岸に近い場所に居城を移した。これが内城である。

 1550年の事。

 この後島津氏は九州北部にまで勢力を伸ばしたものの、豊臣秀吉による九州征伐に屈した。

 1602年家久の時に鶴丸城(鹿児島城)を築いて移るまでの拠点であった。

 内城跡には島津貴久と島津義久の菩提寺である大龍寺が建てられ、南浦文之が開山となった(「大龍」の名前は貴久と義久の戒名から取られた)。

 そして、1869年の廃仏毀釈により大龍寺は廃寺となり、跡地は大龍小学校となった。

 城郭としての遺構は完全に破壊されて残っていない。

 島津領には外城制度があったが、この「外城」は、領主島津氏が居住していたこの城を「内城」と呼んでいたかららしい。

感想

 鹿児島城から東へ1キロ程離れた場所にある。

 現在は大龍小学校となっていて、遺構は全く残っていない。

 城跡がそのまま学校の敷地になった、という訳ではないだろうが、城の規模は何となく分かるようになっている。

 

  

入り口。城内(校内)

 

 

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清水城

 

  

鹿児島市立清水中学校(清水城跡)

 

別名

 

所在地

鹿児島県鹿児島市清水町

種類

山城

築城者

島津氏

築城年

1387年

遺構

 

初訪問

2013年4月

備考

 清水城は、居城東福寺城が手狭になったという理由で、島津元久が築いた。

 城は平地にある居館と裏山に築かれた「後詰めの城」の二重構造になっており、その後の島津氏の城の基本形となった。

 以後15代当主貴久が内城に移る1550年まで8代の居城となった。この間、元久の没後、元久の母との関係から長子犬千代を推す伊集院頼久と、元久の腹違いの弟久豊との間で跡目相続をめぐる争いが生じ、頼久によって清水城は一度焼き払われている。

 この清水城を中心に上町一帯に城下町が発達し、現在の鹿児島市の基礎が出来上がった

 貴久が内城へ移った後は大興寺・大乗院等の寺院の敷地となった。ただ、この段階では後詰めの城までは放棄されず、城の機能は残された。

 1601年、徳川家康から所領と家督を安堵された忠恒は鹿児島城を築き始める。が、忠恒の父・島津義弘は、鹿児島城は要害の地ではなく本拠として不適格である上、家臣も新城建築の負担に耐えないとして、既存の清水城か一宇治城を使うように苦言を呈した。しかし、忠恒は鹿児島城建築に固執。1604年に鹿児島城が完成したのを機に、清水城は廃城となった。

 鹿児島市立清水中学校が置かれている居館跡には城郭遺構は全く残っていない。

 一方、「後詰めの城」には現在も曲輪や空堀の遺構が残っているとされるが、登山道が全く整備されておらず、アクセスは不可能な状態である。

感想

 内城から北東へ1キロ程離れた場所(鹿児島城からは2キロ程離れた場所)にある。

 現在は鹿児島市立清水中学校となっている。

 内城は、城があった事を示す説明板があったが、ここにはそういったものはなく、城があった事は分かり難い。

 

  

鹿児島市立清水中学校(清水城跡)

 

 

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浜崎城

 

  

東郷平八郎像へと続く階段。階段を上がったところの小広場

 

別名

浜ヶ崎城

所在地

鹿児島県鹿児島市清水町田之浦

種類

山城

築城者

長谷川永純

築城年

1053年

遺構

 

初訪問

2013年4月

備考

 浜崎城は1053年に藤原純友の4代後の末裔を自称する長谷川永純が薩摩国に落ち延び、築いたと云われる。薩摩国、大隅国、日向国では初めての城とされている。

感想

 多賀山公園の入り口近くに、狭い石段があり(1人ずつしか上がり下りが出来ない)、そこを上ると小さな広場になっていて、その中央に東郷平八郎の銅像が立っている。

 その周辺が浜崎城跡とされる(流石銅像が立っている小広場が城の全範囲ではなかろう)。

 直ぐ側というか、公園の奥へ進むと東福寺城跡に入る。

 

  

東郷平八郎像。像の側から望める桜島

 

 

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東福寺城

 

  

説明板が立てられている台地

 

別名

 

所在地

鹿児島県鹿児島市清水町田之浦

種類

 

築城者

長谷川永純

築城年

1341年

遺構

 

初訪問

2013年4月

備考

 南北朝時代の動乱は、辺境である薩摩国も巻き込み、薩摩国守護であった島津氏は北朝側、矢上氏は南朝側に立っていた。島津氏は当初薩摩国国府に近い出水を拠点としていたが、やがて薩摩国、大隅国双方に睨みの利く鹿児島に拠点を移そうとした。そこで問題となったのが、南朝側の矢上氏が鹿児島の重要地点・東福寺城に陣取っていた事であった。

 1340年、島津貞久は弟の佐多忠光に東福寺城を攻めさせる。この時は撃退されてしまうが、翌年島津貞久は再び東福寺城を攻略。双方に多数の死者が出たと言われるこの合戦で遂に東福寺城は落城。これ以後島津氏の拠点となった。

 東福寺城自体は山城だったので、島津氏は平地に清水城を築いて居館とし、東福寺城はいざという時の「後詰めの城」となった。その後、島津貴久は居館を内城に移したが、東福寺城は「後詰めの城」として維持された。

 1579年に島津義久は城内に多賀神社を作った。この時からこの地は「多賀山」と呼ばれるようになる。

 島津忠恒は1602年、居城を内城から鹿児島城に移す。この時、後詰めの城も鹿児島城の背後にある城山(上山城)に移り、役目を終えた東福寺城は廃城となった。

 現在跡地は多賀山公園となり、「東福寺城跡地」を示す石碑と東郷平八郎の銅像が建っている。

 公園化が進んでしまっているが、その分曲輪の形状はよく残っているとされる。

感想

 多賀山公園の奥を進むと、山道に入る(イノシシ出没注意の看板が立てられている。市街地にも近いのにイノシシが出没するとは驚き)。そこを上がると、東福寺城跡に関する説明板が立てられた台地に辿り着く。

 墓地の様な階段状の石組みがあるが、当然ながら城の遺構ではない。

 

  

多賀山公園。「東福寺城跡」の道しるべが

 

  

説明板が立てられている台地

 

 

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祗園之洲砲台

 

 

別名

祇園之洲台場

所在地

鹿児島県鹿児島市清水町祗園之洲

種類

 

築城者

 

築城年

1853年

遺構

 

初訪問

2013年4月

備考

 祇園之洲砲台は、1853年に建設された台場である。

 1863年の薩英戦争の際には、イギリス艦隊のアームストロング砲の側射を受け、6門の砲の内5門が使用不可能な状態にまで破壊された。薩摩藩は、イギリス艦隊旗艦にある程度の損傷を与えられたものの、西欧の軍事力、技術力の凄まじさを見せつけられ、近代化の必要性を痛感し、海外との関わりを深めるようになる。

 これが後の倒幕運動へと繋がる事となる。

感想

 祇園之洲砲台は、祇園之洲公園・石橋記念公園の一角にある。

 砲台跡は、木々が生い茂る台地で、周囲の公園と一体化しており、砲台の姿や範囲を想像する事は難しい。

 

  

砲台跡地。石橋公園の石橋の一つ

 

 

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