駐車場となっている屋形跡と詰めの城があると思われる山 |
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別名 |
ハナヅラヤマジョウ |
所在地 |
鹿児島県霧島市国分中央1-10 |
種類 |
屋形・山城 |
築城者 |
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築城年 |
1337年 |
遺構 |
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初訪問 |
2013年4月 |
備考 |
鼻連山城は、南北朝期の初め1337年から翌5年にかけて存続したとされる。 現状は、若宮神社の境内、駐車場、山林、墓地となっている。 鹿児島の城らしく、屋形に、詰めの城を構えた形になっている。 |
感想 |
現在、屋形跡は地元の会社の駐車場となっている。詰めの城のある山は残っているが、上れるようにはなっていない様である。 |
駐車場となっている屋形跡と詰めの城があると思われる山 |
舞鶴城石垣。朱門(アカモン)。舞鶴城石垣 |
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別名 |
国分城、国分新城、国分御屋形 |
所在地 |
鹿児島県霧島市国分中央2 |
種類 |
屋形・山城 |
築城者 |
島津義久 |
築城年 |
1604年 |
遺構 |
石垣、濠 |
初訪問 |
2013年4月 |
備考 |
1604年頃、島津義久はそれまで住んでいた富隈城から、新しい城を新設して移り住んだ。 義久は寒村であった場所に京都風の碁盤の目を敷き、明より商人を招いて「唐人町」を作る等して国分城下の町を整備した。 1611年に義久が没した後、義久の娘で18代当主・島津忠恒の正室であった亀寿姫が鹿児島城より別居させられて移り住んだ(忠恒と亀寿姫はいとこ同士でもあるが、不仲だった)。 1630年に亀寿姫が死んだ後(忠恒は墓すら建てなかったという)は国分城は藩主直轄の地となり、地頭屋形がおかれていた。 その後、薩摩国、大隅国の境に位置するという絶好の立地条件から藩主自体が鹿児島城から国分城に移転する計画が幾度も立てられ、島津斉彬は国分城下の測量まで行ったが、斉彬の死去により頓挫。計画は実行されなかった。 1877年の西南戦争の時には山縣有朋がこの城に駐屯。その後は霧島市立国分小学校が置かれた。 |
感想 |
現在、城跡は霧島市立国分小学校・鹿児島県立国分高等学校となっている。 小学校部分においては、昔ながらの石垣と濠が残り、城跡(屋形跡)らしくなっている。 濠の外側は歩道を兼ねた公園となっていて、往年の姿を描いた図が展示されている。 高等学校部分は白壁が建てられているが、城の遺構ではない様である。 屋形が石垣で固められ、その向こうに詰めの城を構えている点は、鹿児島城とそっくり。 島津氏が屋形・詰めの城という城の形を理想とし、戦国時代は勿論、江戸時代に入ってもそれを継承したんだな、というのが想像出来る。 |
朱門。石垣と濠(霧島市立国分小学校) 石垣と空堀(鹿児島県立国分高等学校) 鹿児島県立国分高等学校。霧島市立国分小学校 舞鶴城と城下町の復元図 舞鶴城復元図 |
隼人城全景 |
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別名 |
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所在地 |
鹿児島県霧島市国分上小川 |
種類 |
山城 |
築城者 |
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築城年 |
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遺構 |
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初訪問 |
2013年4月 |
備考 |
隼人城は、応永(1394〜1428年)の頃、税所左馬助淳弘が居城したと伝えられている。 南北朝期は城主がめまぐるしく変わり、詳細は明らかでない。 1604年、島津義久が国分に館を築き(舞鶴城)、富隈城から移る。その際、北にあったこの城は、館の詰めの城となる。 |
感想 |
現在は城山公園として整備され、車でも行けるようになっている。 ただ、城山公園は史跡としてではなく、遊園地として整備されていて、その建設の際に遺構がかなり破壊されたという。 |
隼人城全景 |
大手門 |
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別名 |
舞鶴城 |
所在地 |
宮崎県日南市大字楠原字前鶴跡 |
種類 |
平山城 |
築城者 |
新納忠続 |
築城年 |
1458年 |
遺構 |
本丸、石垣 |
初訪問 |
2013年4月 |
備考 |
飫肥城は、飫肥市街北部の丘陵に曲輪を幾つも並べた群郭式の平山城。 飫肥城は宇佐八幡宮の神官の出で、日向の地に武士団として勢力を伸ばした土持氏が南北朝時代に築城したのが始まりと伝えられる。 室町時代末期の1458年、九州制覇を狙う薩摩の島津氏が、日向で勢力を蓄えてきた伊東氏の南下に備えて、島津氏の一族である新納忠続を飫肥城に入城させた。 1484年に日向中北部を支配する伊東氏が飫肥に侵攻。しかし、その際に当主伊東祐国が戦死してしまう。しかし、伊東氏の飫肥城にかける執念は凄まじく、その後も伊東氏による飫肥侵攻が断続的に続けられる。1567年、念願かなって飫肥城を奪取した伊東義祐(祐国の孫)は、子の祐兵に飫肥の地を与えた。しかし、1572年に伊東氏が木崎原の戦いを機に没落すると、日向国全土を島津氏が治めるところとなり、飫肥も再び島津氏の支配に下った。これにより、両氏の争いに終止符が打たれたかに思われた。 しかし、飫肥を失った伊東祐兵は羽柴秀吉に仕え、九州征伐に参加し活躍した戦功により飫肥の地を取り返し、大名として復活した。以後、廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで伊東氏が支配する。本来伊東氏は豊臣系の外様大名という微妙な地位にあったが、江戸時代を通じて配置転換を命じられる事無く飫肥の地で家名を全う出来たのは、関ヶ原の合戦で東軍側に付いた数少ない九州大名で、一族の経歴からして島津氏に睨みを利かせられる唯一の存在と見なされたからだったと思われる。 伊東祐国が飫肥に侵攻した1484年から、祐兵が豊臣大名として飫肥城主となった1587年までは、103年の長きに及ぶ。これだけの長期間に渡って伊東・島津氏という2つの勢力が一貫して1つの城を巡って争い続けた事実は、日本の戦史において稀な例である。 |
感想 |
町並み保存地区を真っ直ぐ進むと、飫肥城に辿り着く。 新本丸跡は小学校の敷地になる等、城跡全域が保存されている訳ではないが、旧本丸跡等は残されている。 門や白壁等の復元(復興?)はそれなりに進められていて、城っぽさを感じられる。 |
大手門へ通じる道。大手門前の空堀。大手門を潜ったところ 歴史資料館。松尾の丸への石段。松尾の丸内の復元建築 松尾の丸から望む城内。校庭となっている新本丸跡。旧本丸跡への石段 旧本丸内。歴史資料館裏。城内から望む大手門 大手門へ通じる道。大手門前 大手門前の空堀。大手門を潜ったところ 城内から見た大手門。歴史資料館への道 松尾の丸内の復元建築。校庭となっている新本丸跡 旧本丸跡への石段。旧本丸内から見た城門 旧本丸内。歴史資料館裏 コケに覆われた石垣。歴史資料館全景 城内から見た大手門。城外の武家屋敷(らしい) |
二の丸石垣。いわゆる千人殺し |
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別名 |
縣城(アガタジョウ)、亀井城 |
所在地 |
宮崎県延岡市本小路(城山公園) |
種類 |
平山城 |
築城者 |
高橋元種 |
築城年 |
1603年 |
遺構 |
本丸、石垣 |
初訪問 |
2013年4月 |
備考 |
延岡城は、1601年に高橋元種によって築かれた平山城。築城当初は縣城(アガタ)と呼ばれた。元々縣は古代以降土持氏の支配地であり、延岡城も土持氏の城館を改修増築した可能性も考えられている。 元種は1613年に罪人を匿ったとして改易され、その後は有馬氏・三浦氏・牧野氏と続き、内藤氏7万石による支配で幕末を迎えた。 1655年の有馬康純修築時に建設された天守代用の三階櫓は、1683年に焼失して以後再建されなかった。 1870年に廃城となった。西ノ丸は旧藩主の内藤氏の私有地となるが、1881年に延岡市へ寄贈され、「内藤記念館」として利用されていたが、太平洋戦争時の1945年の空襲によって焼失した。 延岡城の二の丸の高さ22メートル、総延長70メートルには、ある石を外すと一気に全壊し、一度に千人の敵兵を殺す事が出来るという石垣があり、「千人殺し」と呼ばれている。ただ、敵側からすればその石を外せば石垣を崩壊させられる事になる。城の弱点にもなってしまうので、築城者がその様な細工を施すとは現実的には考え難い。 |
感想 |
現在、城の中核部分は公園として整備されている。 石垣が残っているだけで、現存建築・復元建築はない。 城の規模は必ずしも大きくないが、石垣は高く、立派である。 一方、城から一歩出ると、特に西側は直ぐ住宅街となっていて、その意味では保存状態は良くない。 |
二の丸石垣。二の丸内の象。二の丸石垣 本丸(鐘を鳴らす者の管理小屋)。三の丸石垣(画像の左側は民家が並ぶ)。三の丸石垣(民家に張り付く格好で撮影) 三の丸東側の井戸跡 三の丸から望む二の丸石垣 三の丸から望む二の丸石垣 二の丸石垣。三階櫓跡 二の丸。本丸(鐘を鳴らす者の管理小屋) 二の丸から望む石垣。二の丸石垣 千人殺し。三の丸石垣(画像の右側は民家の敷地) 三の丸石垣(民家に張り付く格好で撮影) |
表柱辺り。土塁(と思われる)。金堂ヶ池 |
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別名 |
中の城、宝坂城、ニシシナジョウ |
所在地 |
宮崎県延岡市 |
種類 |
山城(62m) |
築城者 |
土持全宣 |
築城年 |
1429年 |
遺構 |
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初訪問 |
2013年4月 |
備考 |
西階城は1429年に土持全宣が築城し、井上城から移った。 土持氏が西階城を本城としたのは16年間という短い期間だったが(松尾城を築城して移った)、その後も軍事施設として維持され続けたという。 現在は都市公園化が進められており、一部に若干の破壊が見られるものの、おおむね保存状態は良好であり、市民のジョギング・ウォーキングコースとして親しまれている。 |
感想 |
現在は西階運動公園の一部と化している。 公園の奥に入ると、公園全体図があり、そこに西階城跡の表示が見られる。ただ、それにしたがって進んでも、森の中を歩く事を強いられるだけ。途中に何の表示もないので、城について説明している表柱は偶然発見するしかない感じ。 |
表柱辺り 表柱付近の土塁。堀切跡(ぽく見得る土塁の切れ間) 堀切跡(ぽく見得る土塁の切れ間)。金堂ヶ池 |
井上城全景 |
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別名 |
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所在地 |
宮崎県延岡市古城町字天守山 |
種類 |
山城 |
築城者 |
縣土持氏 |
築城年 |
1177年 |
遺構 |
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初訪問 |
2013年4月 |
備考 |
井上城の築城時期・築城者は1177年の土持栄綱、1297年の土持国綱等諸説あり、定かではない。ただ、その頃この地は土持氏の敵対勢力の領地とされる事から、その時代での築城は考え難く、土持氏が勢力を強めた14世紀以降の築城が有力とされる。 記録を見て確実に言えるのは、1429年には土持全宣が西階城を築いて居城をこの井上城から移している、という事である。 |
感想 |
延岡城古城町に、小高い山があり、それが井上城だという。 案内板があるらしいが、未確認。 以前は城山に上れるようになっていたらしいが、現在はそうでないらしい。 「城山町」という地名は、井上城が由来ではなく、また別の城が由来らしい。 |
井上城全景 |
洗合城跡(天倫寺) |
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別名 |
アラワイジョウ、荒隅城、洗合城、洗骸城 |
所在地 |
島根県松江市国屋町 |
種類 |
山城 |
築城者 |
毛利元就 |
築城年 |
1562年 |
遺構 |
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初訪問 |
2013年7月 |
備考 |
荒隅城は、出雲に侵攻した毛利元就によって1562年に築城された。 恒久的な城というより、尼子氏と戦う為の陣城だった様である。 元就は1563年に、この城を拠点として尼子氏に属する白鹿城を攻略する。白鹿城を攻め落とした後、陣城を更に西へと移し、荒隅城は廃城となった。 これから3年後の1566年には尼子氏の本城月山富田城も攻略。尼子氏は滅び(といっても、当主を含め尼子一族は毛利氏の計らいで命は助けられ、謹慎が解けた後は毛利氏の家臣となっている。戦国大名としての尼子氏は滅びた、という事。その後尼子氏の旧家臣が尼子氏の分家の者を担ぎ上げては尼子家再興を試みるが、結局失敗)、元就は中国地方全域を支配下に置く大大名となる。 |
感想 |
一畑電鉄しんじ湖温泉駅の西に位置する。 現在は天倫寺が建っていて、青々とした木々が奥に残る。 城は、陣城としてはかなりの規模だったらしく、寺の敷地だけでなく、現在は住宅地となってしまった区域も城が広がっていたらしい。 城自体の遺構は一切残っておらず、存在を確認する手立ては案内板のみである。 |
洗合城跡(天倫寺) 松江城天守から望む洗合城跡(右中央の緑地) |
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別名 |
ヘイケマルジョウ |
所在地 |
島根県出雲市今市町鷹の沢 |
種類 |
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築城者 |
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築城年 |
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遺構 |
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初訪問 |
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備考 |
平家丸城は、平家にまつわる城とも、佐々木(塩冶)氏一族の今市正近の居城とも言われる。 現在は、県立出雲高校の裏山に僅かに郭を残すのみである。 |
感想 |
JR出雲市駅から、500メートル南東に位置する県立出雲高校があった場所にあるという。 高校自体は高台にあり、城跡らしき雰囲気があるが、遺構はなく、城があった事を示すものは何もない。 高校の入り口付近に日吉神社がある。城と関連があるのかと思ったが、何も確認出来なかった。 |
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別名 |
オオサコジョウ、ダイサコジョウ、向山城 |
所在地 |
島根県出雲市上塩冶町向山 |
種類 |
丘城 |
築城者 |
塩冶氏 |
築城年 |
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遺構 |
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初訪問 |
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備考 |
向山城は、塩冶氏の居城ともされる。 説明板(ツタで覆われていた説明板)では「大廻城(おおさこじょう、だいさこじょう)」となっている。 主な郭が3か所あったという。 13世紀に、源平の戦いで宇治川の先陣争いで有名になった佐々木高綱の弟・義清が、鎌倉幕府より、出雲国の守護識を命ぜられ、その孫・頼泰が弘安年間(1280〜)に築いたのが、大廻城とされる。 頼泰は塩冶郷に守護所を移し、地名を氏とし「塩冶頼泰」と名乗る。 それから約50年後の南北朝の争乱の時には、塩冶判官高貞(頼泰の孫)が活躍している。 15世紀には、出雲守護となった尼子経久が、塩冶貞慶を攻めて追放。代わりとして三男興久に塩冶氏を継がせた(尼子氏は、塩冶氏と同じく佐々木家の流れを汲むので、こうした措置が取られたと思われる)。 しかし、この興久が経久に反旗を翻すと、経久は実の子を討つ羽目に。これにより、塩冶家は名実共に滅亡する。 向山城と大廻城は、資料によっては近くにある別々の城と記録されている。 いずれも塩冶氏の城らしいので、全く別の城というより、呼び方(そして主な郭の位置)が時代を経て変わったものと思われる。 |
感想 |
平家丸城(県立出雲高校)の南500メートル程に位置する小山。 山の入り口に説明板があり、城があった事は容易に確認出来る。 道が整備されているので、上がってみると、住宅地になっていた(こんな所にも家が建つのか、と驚いた)。 住宅の裏に入れば山を登れるのだろうが、山道すらないので、登るのを断念。 |
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別名 |
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所在地 |
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種類 |
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築城者 |
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築城年 |
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遺構 |
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初訪問 |
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備考 |
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感想 |
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