津村巧の

城巡り

TAKUMI TSUMURA'S

CASTLE GUIDE

 

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019

 

柳川城

蒲船津城

今古賀城

大石館

大隈城

門司城

亀山台場

加古川城

石弾城

水ヶ江城

蓮池城

伊万里城

名護屋城

木下延俊陣

 

 

 

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柳川城

 

   

本丸跡。立花邸

 

別名

柳河城、舞鶴城

所在地

福岡県柳川市大字本城町88-2

種類

平城

築城者

蒲池治久

築城年

1501年

遺構

天守台、石垣、堀

初訪問

2013年9月

備考

 柳川城は、蒲池氏の本拠・蒲池城(同市西蒲池)の支城として、1501〜1504年の間に蒲池治久によって築かれた。

 1560年頃、蒲池鑑盛が本拠を蒲池城から柳川城に移し、以降は蒲池氏の本城となる。

 鑑盛の子・鎮漣は、長年仕えていた大友氏から離れて龍造寺氏に従っていたが、1580年に龍造寺隆信への不満から、当城に籠って叛旗を翻す。

 隆信は、1万を超える討伐軍を派遣するが、陥落させられず、籠城は300日にも及んだ。長期籠城を続けてきた蒲池軍も疲弊し、龍造寺方・田尻鑑種(鎮漣の母の弟)の勧めによって和議を結び、戦は一応の終わりをみた。この時、隆信は自分の娘を鎮漣に嫁がせたと云われている。

 しかし翌年、隠居したばかりの隆信は鎮漣を佐賀に招いて謀殺し、柳川城に攻め込む。流石の柳川城も落城。蒲池家一族は全て殺害され、鎌倉以来続いた名門蒲池家は滅亡する。この行為は謀殺が頻発する戦乱の世でもなかなか見られなかったらしく、龍造寺氏ではこれを境に臣下の離反が相次ぐ。その後滅亡。隆信自身も戦で討ち取られている。

 豊臣秀吉による九州平定後、立花宗茂が付近一帯を領して入城した。しかし、関ヶ原合戦で西軍に与した為立花家は改易。代わって田中吉政が入国した。吉政は天守の造営や堀割の整備等、近世城郭化を進めた。が、田中氏は1620年に嫡子断絶の為改易となってしまう。

 代わりに柳川藩主となったのは、20年前に改易となった立花宗茂である。関ヶ原合戦で西軍に属して改易になったものの、その後旧領に返り咲いた大名としては、唯一の例となった(これは、宗茂は二代将軍秀忠に重用されたから。そんな事もあり、江戸に留まっている事が多く、せっかく取り戻した領地は家督を譲られた息子が統治していたという)。

 以後、柳川城は明治を迎えるまで柳川藩立花氏歴代の居城であった。

 明治維新後も天守を初めかなりの建築が残っていたが、1872年に火災で焼失。石垣は、その後堤防の護岸に転用されてしまう。

 天守台は一応残っているものの、現在は柳城中学校のグラウンドの一角にある小山としか認識されておらず、当時の規模を想像する事は難しい。

感想

 JR柳川駅から西へ2キロ程度離れた場所にある。

 本来は石垣で固められ、天守も立つ壮大な城だったのだが、明治維新後に破壊されてしまう。城地も、現在は中学校のグランドと化している。

 辛うじて残されている本丸跡も、石垣は殆ど失われ、土塁の城だったのかと勘違いされそうである(地元の者も、土塁の小規模な城だったと思っているようである)。

 城の南西に、柳川藩主立花邸があり、明治維新後に建てられた洋館が残っていて、ホテルやレストランとして活用されている。

 

 

  

柳川城入り口。天守台跡

 

  

本丸跡。土塁と化した本丸石垣跡

 

  

柳川市内の水路。立花邸

 

 

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蒲船津城

 

   

城があったと思われる場所。説明板のある神社

 

別名

カマフナヅジョウ

所在地

福岡県柳川市三橋町蒲船津字村中

種類

平城(屋形)

築城者

 

築城年

 

遺構

 

初訪問

2013年9月

備考

 蒲船津城の築城年代は定かではない。

 柳川城主蒲池氏の支城として築かれた。

 1581年に蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ、謀殺される。

 龍造寺氏はこれを機に柳川に侵攻。蒲池(黒木)益種の守備する蒲船津城も落城してしまう。

 落城後は龍造寺氏の臣下の百武賢兼が城番を勤めた。しかし翌年、有馬晴信・島津家久連合軍を相手にした沖田畷(おきたなわて)の戦いで龍造寺隆信も賢兼も戦死してしまう。

 これにより、夫賢兼の代わりに城を守っていた妻が城主となる。女城主圓久尼(円久尼)の誕生である。

 1584年、筑後国奪回を目指す戸次鑑連、高橋紹運の軍が蒲船津城を囲んだが、円久尼はこれを撃退したという。

感想

 JR柳川駅から国道443号線を東に1キロ程度進んだ所に神社があり、その一帯が「蒲船津」という地区になっている。そこが蒲船津城跡とされる。

 神社の入り口の横に説明板がある。が、位置的にはそこは城跡の北端で、城はその南の、現在は住宅地や水田になっている場所にあったらしい。

 地形からして、平城というか、屋形型の砦であったのが想像出来る。

 水路があり、城があった当時のものかと思ってしまうが、定かでなく、遺構は残っていないと言っても良い。

 

 

  

城があったと思われる場所。説明板のある神社

 

 

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今古賀城

 

 

別名

イマコガジョウ

所在地

福岡県柳川市三橋町今古賀

種類

平城

築城者

蒲池氏

築城年

 

遺構

 

初訪問

2013年3月

備考

 今古賀城も、蒲船津城と同様、築城年代は定かではない。

 柳川城主蒲池氏によって出城として築かれた。

 立花右衛門が在城したといわれる。

 1581年、蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ、佐嘉に赴いた所を謀殺される。

 蒲船津城と同様、その直後の龍造寺氏の柳川侵攻で落城した。

 龍造寺氏の滅亡後の1587年に立花宗茂が柳川城に入ると、今古賀城にはその家臣・立花右衛門太夫・立花吉衛門が城代となった。

 しかし1600年、立花宗茂は関ヶ原合戦で西軍に与した為改易となり、それと同時に今古賀城も廃城となった。

感想

 今古賀は、JR柳川駅から真っ直ぐ500メートル程南下したところにある今古賀という地区にあったとされる。

 現在は空き地や、商業施設や、車道となっていて、城の面影はない。

 地名だけでしか城跡の存在を確認するしかない。

 一帯は平地なので、平城(屋形型)だった事が想像出来る。

 

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大石館

 

 

別名

オオイシヤカタ

所在地

福岡県久留米市大石町

種類

築城者

大石鎮豊

築城年

 

遺構

 

初訪問

2013年9月

備考

 大石館に関しては、実在した事以外は、詳細は不明。

 伊勢の大石越前守鎮豊の館跡だったとか。

感想

 JR久留米駅の南西500メートル程のところにある大石神社(正式名称は伊勢天照御祖神社らしい)が館跡とされる。

 現在は、ごく普通の神社が建つだけで、館だった事を示す痕跡は残っていない。

 

  

 

 

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大隈城

別名

 

所在地

 

種類

平城

築城者

大隈左近将監

築城年

 

遺構

 

初訪問

2013年9月

備考

 大隈城は、実在していたのは事実だが、詳細は不明。

 城主は大隈左近将監だったという。

感想

 JR久留米駅から2キロ程南にある大隈天満宮辺りに、城があったという。

大隈天満宮」という大層な名前が付けられているが、小規模な、手入れが行き届いていない雰囲気の神社(空き地の片隅に、置き忘れられたかの様に建っている)で、写真を撮るのをすっかり忘れた程。

 

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門司城

 

古城山

 

別名

門司関山城、亀城

所在地

福岡県北九州市門司区大字門司字古城山

種類

山城

築城者

紀井通資

築城年

1185年

遺構

石垣、曲輪

初訪問

2013年9月

備考

 門司城は、関門海峡を望む、現在古城山と呼ばれる山の山頂(標高175メートル)に築かれた。

 1185年に、平知盛が、家臣の紀井通資に命じて築いたという。

 戦国時代には、門司城は大友氏の城となった。

 1558年に、毛利氏が門司城を攻撃し、奪取。

 大友氏は城の奪還を試みるが、失敗している。。

 関が原の戦い後に、毛利氏が去り、代わりに細川忠興が豊前国に入る。細川氏は城を修築して城代に置くが、1617年に廃城となる。

 1892年に大日本帝国海軍の下関要塞が築かれた為、遺構はほぼ壊滅している(本丸跡には、この時代の砲台跡が残されている)。

感想

 JR門司駅から、北東へ5キロ程の場所にある山に、門司城がある。

 自動車で移動している者からすれば、アクセスは悪くないが、そうでない者からするとアクセスは良くない。

 

門司港辺りから古城山を望む

 

 

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亀山台場

 

台場跡全貌

 

別名

 

所在地

山口県下関市中之町(亀山八幡宮)

種類

台場

築城者

毛利氏

築城年

 

遺構

 

初訪問

2013年9月

備考

 亀山台場は、江戸時代末期に萩藩毛利氏によって築かれた台場。

 現在は、亀山八幡宮となっていて、神社内に案内板が設置されている。

 埋め立てられる前までは、亀山八幡宮の直ぐ近くに海岸線があったという。

感想

 唐戸市場の真向かいにある亀山八幡宮が、台場跡

 説明板があり、台場跡であるのは確かなのだが、物理的痕跡はない。

 八幡宮自体は高台にあり、海を見下ろす形となる。

 

  

亀山八幡宮(北側入り口)。説明板

 

  

亀山八幡宮。南から望む全貌(台場があった時代は海だった場所から望む)

 

 

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加古川城

 

称名寺の門と、イチョウの木

 

別名

糟屋の館、糟屋氏館、加須屋城

所在地

兵庫県加古川市加古川町本町

種類

平城

築城者

糟屋有教

築城年

13世紀

遺構

 

初訪問

2013年10月

備考

 加古川城は糟屋有教によって13世紀に築城された。播磨では白旗城に次いで古い城だったとされる。

 当時の城は、石垣を高くして、中央に物見櫓を設けられていた。城壁には、矢、鉄砲の発射のための大小の孔が空けられていた。外部は、塹壕をめぐらして、逆茂木を設ける事により、敵が容易に接近出来ないようにした。

 1577年、羽柴秀吉が播磨に入ると、毛利討伐の軍議がこの城で開かれた。この時の12代城主であった糟屋武則は秀吉に付き従って小姓頭となる。武則は賤ヶ岳の戦いで武功を上げ、七本槍の一人に数えられる等の活躍を見せ、最終的には1万2000石の大名に出世。しかし、関ヶ原の戦いでは西軍に付いてしまった為、領土を没収された。

 糟屋氏はその後断絶し、1615年に城は破却された。

感想

 現在、城跡は称名寺という寺になっている。

 入り口の横には、加古川城に関する説明板もある。

 寺自体は、ごく普通のもので、城があった事を示すものは何もない。

 門を入ると、イチョウの木が立っているが、これは昔から加古川の町の目印だったという。

 

  

称名寺の門。境内

 

 

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石弾城

 

泊神社

 

別名

イシハジキジョウ、イシダンジョウ

所在地

兵庫県加古川市加古川町木村658

種類

平城

築城者

大井三樹伊予守宰

築城年

1339年

遺構

 

初訪問

2013年10月

備考

 1339年に、大井三樹伊予守宰によって築かれたと云わる。

 1375年に、宰の五男雁南右衛門四郎勇が家督を継ぎ、赤松氏に従った。1455年に勇が討死した後は、勇の長子の雁南刑部太郎長(木村源太郎と改名)が城を守る事になる。

 しかし、石弾城は1459年に山名宗全によって攻められる。源太郎は討死し、石弾城は落ちた。

 後に敷地に建てられた泊神社は、宮本武蔵の養子伊織が小倉藩家老となった後に、武蔵の供養の意を込み寄進して全社殿一式を再建し、宮本家の氏神となったのだという。

感想

 現在は泊(トマリ)神社となっている。

 かなり広い敷地を持つ神社。この敷地一杯に城があったのか、更に広かったのかは不明。

 敷地内には、城跡である事を説明する案内板が一応ある。

 ただ、泊神社自体は、城跡に建てられた神社というより、宮本武蔵に所縁のある神社として知られているようである。

 

  

泊神社北口。泊神社

 

  

泊神社。南門

 

 

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水ヶ江城

 

龍造寺隆信生誕地の石碑

 

別名

ミズガエジョウ

所在地

佐賀県佐賀市中の館町

種類

平城

築城者

龍造寺氏

築城年

 

遺構

 

初訪問

2013年11月

備考

 水ヶ江城の築城年代は定かではない。15世紀に龍造寺康家によって築かれたとされる。

 この時点では館に近く、本格的な「城」ではなかったが、康家没に家督を引き継いだ家兼が西館・中館・東館と呼ばれる周囲に堀を巡らせた五館の曲輪群を整備。この時点で水ヶ江城と呼ばれるようになった。

 家兼の曾孫が龍造寺隆信で、分家である水ヶ江龍造寺氏の出でありながら、本家である村中龍造寺氏も継承する。隆信は、肥前を統一する等、有力な戦国大名にのし上がったが、その頃から謀殺・粛清を繰り広げるようになり、家臣の信頼を失ってしまう。最終的には1584年に島津・有馬氏の連合軍との沖田畷の戦いで敗死する。

 領地は、隆信の重臣であった鍋島直茂が引き継いだ。

 直茂は水ヶ江城の北側に佐賀城を築城し、水ヶ江城から移った。

感想

 佐賀城跡の南に、中の館児童公園があり、そこが龍造寺隆信生誕地となっていて、石碑が立つ。龍造寺隆信は、謀殺を繰り広げた挙句に家臣から見放され、最終的には戦の最中に死亡してしまうという、あまり誉められた人物ではなかった様だが、地元ではそれなりに慕われているらしい

 直ぐ近くに乾亨院という寺があるが、そこも元は水ヶ江城の一部だった様である。

 ただ、城としての遺構は何も残っていない。

 地形からして、平城というか、館型の城だったのが想像出来る。

 

  

中の館児童公園(龍造寺隆信生誕地)入り口。龍造寺隆信生誕地の石碑

 

乾亨院

 

 

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蓮池城

 

   

蓮池公園。蓮池神社

 

別名

ハスイケジョウ、小曲城,小田城,蓮池陣屋

所在地

佐賀県佐賀市蓮池町大字蓮池(蓮池神社/蓮池公園)

種類

平城

築城者

小田直光

築城年

1429年

遺構

 

初訪問

2013年11月

備考

 蓮池城は、関東から下向した小田直光の居城として1429年頃に築かれたとされる。

 代々、小田氏の居城として使用されるが、16世紀に入ると佐賀城主龍造寺隆信の侵攻を受け、城主小田鎮光が降伏すると、龍造寺氏の支配となり、後藤家信、龍造寺家晴が城主となる。

 1584年に龍造寺隆信が沖田畷の戦いで戦死すると、隆信の次男江上家種が入城したが、家種が文禄の役で戦死すると、鍋島直茂の居城となった。

 鍋島氏は後に佐賀城を築き本城はそこに移るが、蓮池城は佐賀城の出城として重視され続けた。

 1615年の一国一城令に伴い、蓮池城は破却されるが、鍋島勝茂の三男直澄が1639年に蓮池藩(5万2625石)を創設し、藩庁を設置。以降、明治維新に至るまで、蓮池陣屋として、蓮池鍋島家の居城となる。

感想

 JR佐賀駅から、東に5キロ程離れた場所にある蓮池公園が蓮池城跡。

 定期バスが走っているので、バスでも行ける。

 周辺は、周辺は、住宅や、町工場や、田園風景が広がり、のどかな雰囲気。

 公園内に蓮池神社があるが、傷みが著しく、フェンスで囲って接近出来ないようになっている。

 公園内には水路や、日本庭園っぽい植え込みがある。

 現在、公園は佐賀江川によって東西に分断されているが、元は一つの広大な敷地だったらしい。

 市民には、城(陣屋)跡というより、桜の名所として知られている。

 

  

蓮池神社。公園内

 

  

蓮池神社

 

  

西側の庭園。東側の庭園

 

 

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伊万里城

 

   

伊万里城全貌。伊万里城内

 

別名

浜城、鶴亀城

所在地

佐賀県伊万里市松島町伊万里城山公園

種類

平山城42m

築城者

伊万里氏

築城年

1218年

遺構

 

初訪問

2013年11月

備考

 伊万里城は、松浦党の一族である峯上(ミネ・ノボル)によって1218年に築かれたとされる。峯上は後に伊万里氏を名乗り、伊万里氏の祖となる。

 松浦党は、中世に西北九州を根拠地にして活躍した水軍であり、伊万里氏も海の交通を重要視し、伊万里城を築いたと思われる(現在、伊万里城のある山は周辺を陸地に囲まれているが、当時は海に突き出した岬状の地形だったらしい)。

 伊万里氏は松浦党の有力家にまで上り詰めたが、1576年に佐賀の戦国大名龍造寺隆信に攻められ、伊万里城は落城する。

 これを機に、伊万里氏は伊万里の地を離れ、伊万里城はその役割を終えた(一部資料では滅ぼされたとなっているが、実際には家系は細々と続いたようである)。

 現在、城跡は城山公園となり、桜の名所となっている。

感想

 JR/MR伊万里駅から、500メートル程北東にある小山に、城山公園があり、そこが伊万里城跡とされる。

 現在は市街地に囲まれているが、城があった時代は伊万里湾に突き出した岬だったという。

 公園自体はそう広くはなく、城は現在公園として整備されている山の上だけでなく、その麓にも広がっていたと思われる。

 公園の奥には展望台があるが、閉鎖され、上がれない様になっている。

 公園への登山口には、伊万里氏の守護寺である円通寺がある。

 

  

伊万里城全貌。城内(閉鎖された展望台)

 

城内(展望台から振り返る)

 

 

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名護屋城

 

大手口付近の三の丸石垣

 

別名

名護屋御旅館

所在地

佐賀県唐津市鎮西町名護屋

種類

梯郭式平山城

築城者

豊臣秀吉

築城年

1591年

遺構

石垣、空堀

初訪問

2013年11月

備考

 名護屋城は、豊臣秀吉が朝鮮出兵する際、前線基地として築いた城。

 面積は17ヘクタールにもおよび、大坂城に準じる規模だったが、全国の大名を動員して築かせた為、数ヶ月で完成したという。

 秀吉は、この名護屋城を拠点に、二度に渡って計30万人の軍を朝鮮半島に送り込んだ。

 しかし、朝鮮出兵は難を極め、秀吉は心労により没する。

 これを機に、全軍が撤収し、名護屋城はその役目を終えた。

 名護屋城は約7年間前線基地として機能したが、秀吉が実際に滞在したのは1年ちょっとだった。

 その後、肥前は寺沢広高が収める事となった。関が原の戦いの後、広高は唐津城の築城を開始。名護屋城を解体し、資材を使用した。

 後に、城として利用出来ないよう、石垣の四隅を崩す等の措置が取られた。

感想

 廃城となり、石垣の四隅が崩される等の措置が取られたものの、曲輪はほぼ全てが残っていて、城というものは実際どれ程の規模だったのか、というのが歩いて実感出来る。

 城そのものの規模は、後に築かれる城(姫路城、熊本城、名古屋城等)と比較すると若干小さい感じがするが、完成当時は大坂城に次ぐ規模だった、というのも納得出来る。

 城として利用出来ないように、という措置が取られた割には石垣はかなり残っていて(城として使おうと思えば充分使えそう)、一旦石で固めてしまうと破壊が容易でないのが分かる。

 本丸は、櫓の基礎部分が舗装で示してあり、城は完成した後も何度か拡張工事が実施されたのが分かるようになっている。

 曲輪には転落防止用の柵が設けられていない部分が多いので、注意して移動しないと転落する。

 直ぐ側に佐賀県立名護屋城博物館がある。有料だが、無料で見られる部分もある。茶室もあるが、早々と営業終了するので、利用希望者は早めに利用しなければならない。

 

  

三の丸石垣。本丸から望む二の丸・遊撃丸。本丸石垣と、二の丸・遊撃丸へと続く通路

 

  

破壊された本丸石垣。上山里丸。佐賀県立名護屋城博物館内で展示されている黄金の茶室

 

  

大手口石垣。三の丸石垣

 

  

大手道から望む東出丸石垣。三の丸石垣

 

  

東出丸。三の丸

 

  

三の丸から望む本丸石垣。三の丸・馬場の間の門跡

 

  

三の丸・馬場の間の門跡の巨石。本丸(櫓跡と、本丸拡張部分を示している)

 

  

本丸から望む二の丸と遊撃丸。遊撃丸

 

  

天守台跡。本丸

 

  

馬場から望む本丸石垣

 

  

馬場と本丸石垣。馬場から望む弾正丸

 

  

本丸石垣と、二の丸・遊撃丸へと続く通路。二の丸から望む本丸石垣

 

  

遊撃丸から望む本丸石垣

 

  

遊撃丸から望む石垣。上山里丸の石垣

 

  

上山里丸の石垣。大手口から望む大手道、三の丸、東出丸

 

  

大手口から望む大手道。佐賀県立名護屋城博物館内で展示されている黄金の茶室

 

 

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木下延俊陣

 

木下延俊陣

 

別名

キノシタノブトシジン

所在地

佐賀県唐津市鎮西町名護屋

種類

陣所

築城者

木下延俊

築城年

 

遺構

石塁

初訪問

2013年11月

備考

 木下延俊は、豊臣秀吉の正室高台院の兄木下家定の子で、文禄の役の時は播磨国三木郡内二万石を所領していた。

 秀吉の親戚でありながら、関ヶ原合戦では東軍に属して戦功を挙げ、豊後国日出三万石の大名となった。

 大阪夏の陣の後、延俊は秀頼の子をかくまった、という説もあるが、定かでない。

 陣跡には桝形虎口、石塁等が残っている。名護屋城跡並陣跡として国特別史跡に指定されている。

感想

 佐賀県立名護屋城博物館の裏側(南側)に位置する陣所跡。

 名護屋城周辺には、朝鮮出兵に参加した諸大名の陣跡が数多く残っているが(バス停の名前になっているものもある)、その中でも名護屋城から最もアクセスし易い陣所でもある。

 遺構保存の為、遊歩道が設けられ、地面が荒らされないようになっている。

 石垣の痕跡が見られる。

 

  

 

 

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別名

 

所在地

 

種類

 

築城者

 

築城年

 

遺構

 

初訪問

 

備考

 

感想

 

 

 

 

 

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別名

 

所在地

 

種類

 

築城者

 

築城年

 

遺構

 

初訪問

 

備考

 

感想

 

 

 

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