庭園跡 |
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別名 |
徳山陣屋、徳山館 |
所在地 |
山口県周南市徳山5854-41 |
種類 |
城館 |
築城者 |
毛利就隆 |
築城年 |
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遺構 |
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初訪問 |
2010年(2014年3月) |
備考 |
徳山城は、元は長州藩毛利家の支藩としておかれた徳山藩毛利家の居城だった。 当初は城とは認識されておらず、陣屋扱いだった。 そんな事もあり、空堀や水堀は設けられず、土塁で間に合わされており、簡素な構えであった。が、陣屋としては「日本三大陣屋」に数えられるほど壮大な規模であった(他の二つは敦賀酒井氏の敦賀陣屋と保科氏の飯野陣屋)。 1836年、徳山藩毛利家は「城主格」となり、陣屋は名目上は城となり、「御城」と称される様になった。 といっても、改築などは成されず、名はともかく実態は陣屋のまま幕末に至った。 |
感想 |
元々徳山市にあったが、市町村合併に伴い周南市の城となった。 城跡は現在周南市文化会館、徳山動物園となっている。 これといった遺構は残っていない。 |
2010年 2014年 庭園跡。文化会館 |
麓から望む竹田城。虎口付近 |
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別名 |
虎臥城(トラフスジョウ、コガジョウ)、安井ノ城 |
所在地 |
兵庫県朝来市和田山町竹田(虎臥山) |
種類 |
山城(353m) |
築城者 |
太田垣氏 |
築城年 |
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遺構 |
石垣 |
初訪問 |
2013年12月 |
備考 |
竹田城は、353メートルの古城山(虎臥山)の山頂に築かれた山城。 南北約400メートル、東西約100メートル。天守台を中心に、本丸、二の丸、三の丸、南二の丸が配置されている(上から見ると、メルセデス・ベンツの3ポイントスターの様な縄張り)。 いつ築城されたのかは不明とされるが、15世紀中頃に太田垣氏によって「安井ノ城」として築かれたのが始まりらしい。 太田垣氏は、当初は山名氏の配下にあったが、山名氏が衰えると毛利氏に接近。しかし、1580年、但馬に侵攻した羽柴秀吉軍により落城してしまう。 その後、秀吉の命で赤松広秀が入城。城を築き直し、現在残る城郭へと整備した。 赤松広秀は、関ヶ原の戦いでは西軍に属するが、西軍が敗戦したと知ると東軍に寝返り、亀井茲矩の誘いに乗って鳥取城攻めに参加する。が、鳥取城攻めで実施した城下焼き討ちは家康の不興を買ってしまい、結局切腹を命じられてしまう(焼き討ちは広秀だけによるものではなかったが、亀井茲矩が自身の責任を回避すべく広秀に擦り付けたとも)。 竹田城は、家康の命で山名豊国が入城。 が、その後幕府の命令で廃城となった。 |
感想 |
JR竹田駅から出ると、見下ろされる様にそびえるのが虎臥山で、そこに建つのが竹田城。 本来は、急斜登山道や、表米神社を経る道が近道となっているが、数ヶ月前の台風の影響で閉鎖されていた。そんな事もあり、一番道のりのある、ゆったりルートを経て登山した。 30分程度で、入り口となっている虎口に到着(通常は大手門からも入れるが、この時だけは閉鎖されていた)。 自分が訪れた時は霧の中に浮かぶ「天空の城」として脚光を浴びていて、観光客が大勢いた。 あまりにも人が増え、石垣から転落して怪我をした、という者もいた為、転落防止の為急遽ロープが張られていた。これが非常に見栄えが悪く、邪魔。せっかくの史跡が、ただの観光地になってしまっている。こうした詰まらぬ措置は止めてもらいたい。 天守台は、修復工事の為上がれなかった。 念願の竹田城で、見所は多数あったが、人の多さと、「観光地化」にはがっかりした。 |
虎口付近の石垣 二の丸から南二の丸を望む。二の丸から見た天守台。二の丸 大手門石垣。南二の丸から望む天守台。南千畳の石垣 麓から望む竹田城。南千畳の石垣 南千畳の石垣 南千畳から望む三の丸 南千畳から望む南二の丸。三の丸石垣 二の丸から南二の丸を望む。二の丸から見た天守台 三の丸から望む石垣。三の丸 南千畳から望む本丸。南千畳の石垣 南千畳から望む三の丸石垣。登山口にもなっている表米神社(数ヶ月前の台風の影響で閉鎖) |
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別名 |
桐ヶ城 |
所在地 |
兵庫県篠山市北新町2-3 |
種類 |
輪郭式平山城 |
築城者 |
徳川家康 |
築城年 |
1609年 |
遺構 |
石垣、堀 |
初訪問 |
2013年12月 |
備考 |
篠山城は、徳川家康直々の命で、1609年に築城された。 この時期は江戸幕府が開付してから間もなく、その上大坂城の豊臣氏が健在だった。山陰道の要衝である丹波篠山盆地に城を築く事によって、豊臣氏や、西日本諸大名に睨みを効かせるのが築城の目的だったとされる。 縄張は藤堂高虎が担当。池田輝政が普請総奉行をが務め、15カ国20大名の助役による天下普請により僅か6か月で完成した。 天守台こそ築かれたものの、完成を優先し、実戦にも耐え得る城とした為、天守は結局築かれなかった。 大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぶと、篠山城は西日本諸大名の抑えの城と位置付けられ、幕府に近い松平三家八代、青山家六代の居城として明治を迎えた。 |
感想 |
篠山城は、篠山市中心部にあるが、最寄のJR駅は、バスで20分程度離れた場所にある篠山口駅。交通の便は、必ずしも良くはない。 篠山城は、時代によって曲輪の呼び方に変化があったらしく、天守台がある小曲輪を「殿守丸」とするか「本丸」とするかで、他の曲輪の名称も変ってしまう。 現在隣の曲輪に御殿が復元されているが、それも、天守台がある小曲輪を「殿守丸」した場合は「本丸御殿」となり、天守台がある小曲輪を「本丸」した場合は「二の丸御殿」となる。 天守のある曲輪には現在神社がある。 自分が訪問した時は城の東側・南側の石垣が修復されていて、近付けなかった。 |
本丸(二の丸)北側石垣。天守台(殿守丸(本丸)から)。本丸(二の丸)西側石垣 本丸(二の丸)北側石垣。復元御殿 復元御殿 殿守丸(本丸)の神社。天守台 北側石垣。本丸(二の丸)西側石垣 本丸(二の丸)西側石垣。本丸(二の丸)南側石垣(ブルーシートが覗く) 二の丸(三の丸)土塁と水濠。南馬出し跡と、石垣 |
別名 |
ハナクマジョウ、花熊城、花隅城、鼻隅城、鼻熊城 |
所在地 |
兵庫県神戸市中央区花隈町(花隈公園) |
種類 |
平山城 |
築城者 |
荒木村重 |
築城年 |
1567年 |
遺構 |
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初訪問 |
2013年12月 |
備考 |
花隈城は、1567年に織田信長が中国へ勢力を伸ばす手段として、摂津伊丹城主の荒木村重に命じて築かせた城。 築城には近江の穴太衆を招集。石垣で固めた城は、1年程度で完成したという。 しかし、1578年に村重が信長に叛くと、花隈城は池田恒興(輝政の父)に攻められ、1580年に落城した。 合戦の功によりこの地を与えられた恒興は、近くに兵庫城を築城。 花隈城は廃城となった。兵庫城の築城では、花隈城の部材を転用したとされる。 |
感想 |
JR元町駅の北東に花隈公園があり、そこが花隈城跡とされる。 公園といっても、駐車場の屋上に建てられていて、石垣っぽい外壁で固められているものの、城っぽさはあまり感じられない。 説明板だけが城があった事を示している。 |
駐車場入り口。駐車場上の小公園 駐車場上の小公園 |
高松山。高松城本丸跡。山頂付近にある高松神社 |
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別名 |
愛宕城、熊谷城、高松山城、高松古城、三入高松城(サンイリ) |
所在地 |
広島県広島市安佐北区可部町高松山 |
種類 |
山城 |
築城者 |
熊谷氏 |
築城年 |
室町時代 |
遺構 |
案内板、石塁、土塁 |
初訪問 |
1995年(1996年、2006年、2014年1月) |
備考 |
安芸高松城は、安芸国三入荘を領地とした熊谷氏の居城。 熊谷氏は、鎌倉時代の「承久の乱」の功により、地頭職となって安芸に入った。当初は、三入荘北端に伊勢ヶ坪城を居城としていた。時代が戦国の世へと移ると、伊勢ヶ坪城は防備に難があると考え、当主熊谷直経は高松山に居城を移した。これが安芸高松城の始まりとされる。 熊谷氏は安芸武田氏に臣従していたが、16世紀に入り、熊谷信直の代になると、領土問題でもめて武田氏から離反。信直は毛利元就と和議を結び、以後毛利氏の重臣となる。 1591年に広島城が完成すると、熊谷氏も城下に移住するが、その後も高松城は熊谷氏の城であり続ける。 しかし、関ヶ原の後に毛利氏が防長に移封されると、熊谷氏はそれに従って安芸国を離れる。 高松城は、最終的には1615年の一国一城令で破却された。 |
感想 |
高松城は、これまで何度か訪れているが、麓から見上げるだけで、山頂まで行こうとは思わなかった。 2014年に安佐北区を訪ねた際、漸く山頂まで行ってみる気に。 1995年は、登山口の近くに学校のグラウンドがあり、それが目印になっていたが、2006年に訪れた頃にはグラウンドは撤去されていた。2014年に訪れると、グラウンドがあった場所が河川の拡張工事に伴い消滅。1995年当初は、川から登山口までかなりの距離があったが、現在は川の直ぐ横に登山口がある(当然ながら登山口は移動していないので、川幅が大幅に広げられた事になる)。 登山口を登ると墓地になっていて、その奥へ行くと鳥居が見え、山道が始まる。 登山途中に石垣跡が見られたが、城跡というより、勝円寺跡(もしくは屋敷跡)らしい。 曲りくねった山道を登り切ると、山頂に辿り着く(30分程度かかった)。 |
登山口入り口。墓地の奥の鳥居 山道の途中にある石垣跡(勝円寺跡(もしくは屋敷跡)) 石段。高松神社(山頂は、この裏の道を更に上がる) 山頂の本丸と二の丸跡 高松山全貌 |
勝栄寺。土塁(北側、西側) |
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別名 |
ショウエイジ |
所在地 |
山口県周南市中央町3−10 |
種類 |
平城 |
築城者 |
陶弘政 |
築城年 |
1350年頃 |
遺構 |
土塁 |
初訪問 |
2014年3月 |
備考 |
勝栄寺は、南北朝時代の1350年頃に、大内氏の重臣陶弘政が創建した時宗寺院。 寺院ではあるが、周囲には土塁と堀が巡らされ、要塞と化していた。 厳島合戦で陶晴賢を敗った毛利元就は、1557年に大内氏の本拠である周防・長門の平定に乗り出す際、勝栄寺に陣を構えたという。 「三本の矢」で著名な三子教訓状は、この地で書かれたものとされる(寺は、現在その事を大々的にアピール)。 戦国時代の寺院は、政治的・軍事的な性格を持ち合わせ、城郭機能を持つものは少なくなかったという。 が、時代を経り、戦国大名が台頭し始めると、全国の寺院は武装放棄・縮小を迫られる。したがって、軍事色の強い寺が現在までそのまま残っている例は少ない。勝栄寺の土塁は県内唯一の例だという。 |
感想 |
JR新南陽駅の北口を出て、山陽本線に沿って西へ200メートル程移動すると、勝栄寺に到着。 土塁は、境内の西側に、弧を描く形で残っている。 当時は土塁の外側は水濠だったようだが、現在は歩道になっている(歩道が、水濠跡を示すパターンになっている)。 弧が南端で突然切れている点を見ると、勝栄寺の土塁(そして敷地)は、現在山陽本線(寺の直ぐ南にある)が走っている範囲にまで及んでいたらしい。 |
勝栄寺の門。土塁を境内から見る 土塁(北側、西側)。歩道の渦巻きパターンが水濠跡を示しているらしい 土塁を内側から望む |
本丸跡にある瑞龍寺。本丸石垣 |
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別名 |
八幡城、近江八幡城 |
所在地 |
滋賀県近江八幡市宮内町19-9 |
種類 |
山城 |
築城者 |
豊臣秀吉、豊臣秀次 |
築城年 |
1585年 |
遺構 |
石垣、曲輪 |
初訪問 |
1997年(2014年再訪) |
備考 |
八幡山城は豊臣秀吉の甥で、後に関白となった豊臣秀次によって築かれた。1585年に43万石の大名としてこの地に来た時は僅か18歳。若いながらも秀次は町造りを精力的に進め、町民に慕われていたという。 しかしたった5年で秀次は尾張清洲城へ封じられてしまう。 秀次は、子供のいなかった秀吉の跡継ぎに任命されていたのだ。が、淀殿が秀頼を産み、正真正銘の跡継ぎが出来てしまうと、秀吉にとって秀次は不要どころか、秀頼の地位を脅かしかねない危険な存在となった。跡継ぎを巡るトラブルを避ける為、秀吉は理由にもならない理由で秀次とその一族を処刑した。1595年の事である。 これを悲しんだ秀次の母親――秀吉の姉――は八幡城跡に寺を築き、秀次をまつった。これが神雲御所の由来である。 八幡山城が城として存在したのは、僅か10年だった。 |
感想 |
八幡山城は、標高283メートルの山の上にある。 登山道が整備されているが、ローブウェイで上がれる様になっているので(15分置きに発車)、それを利用した方が無難である。 山頂の城はそう広くはなく、30分程度で見て回れる。 本丸は、瑞龍寺の境内となっていて、一般人が入れるのは入り口まで。奥までは行けないので、本丸の広さは把握し辛い。 石垣がかなり残っているものの、城のものか、寺を築いた際に築き直されたのかどうかは分からない。 |
石垣。瑞龍寺 石垣 瑞龍寺 石垣。近江八幡市の運河 |
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別名 |
ミナクチジョウ、碧水城、水口御茶屋 |
所在地 |
滋賀県甲賀市水口町本丸4−80 |
種類 |
平城 |
築城者 |
徳川家光 |
築城年 |
1634年 |
遺構 |
石垣、曲輪、濠 |
初訪問 |
2014年 |
備考 |
水口城は、徳川家光の命により、将軍が京へ上洛する際の宿館として築かれた。 将軍が利用するとあって、宿館ながらも城の体勢を取り、二条城の御殿を模した豪華な御殿も築かれたが、将軍の宿舎として利用されたのは家光上洛の1回だけだった。それ以降は、江戸幕府と朝廷の力関係が確定した事もあり、将軍の上洛はなくなった。 水口城は、幕府の任命した城番が管理する「番城」となる。 1682年に加藤明友が2万石で入城し、水口藩を成立。 以後、一時期除いて加藤氏の居城となる。 加藤氏は、「城は幕府から預かっているもの」と考えていたらしく、本丸部の御殿は使用せず、政は二の丸(柵で囲っただけの区域で、本丸とは異なり濠もなかったとか)で行っていた。 明治維新で廃城となると、建物は取り壊され、濠の一部が埋め立てられてしまう。 1972年に、辛うじて残っていた本丸の敷地が史跡に指定されると、残った部分の整備が行われ、門や櫓(実際にはなかった場所に建てられている)が復興され、城らしさを保っている。 |
感想 |
近江鉄道の水口城南駅の直ぐ側にある。 近付くと共に白亜の櫓と濠が見えてくるので、あまり有名な城でない割にはかなり整備されている、と思ってしまうが……。 整備されているのは、東側にある出丸らしき曲輪だけで、本丸自体は運動場になってしまっている。また、出丸に建てられた二重櫓は、実際にはなかったもの(二重櫓があった本丸はグラウンドになっていて、濠が埋め立てられている事もあり、復元するだけ無駄、と判断されたらしい。二重櫓は資料館となっている)。 出丸周辺は石垣で固められ、堅牢だが、本丸は一部を除いて土塁だけの、簡素なもの。あくまでも宿所であり、城ではなかったらしい。 甲賀市は、現在この城を以ってして「城のある街」としてアピールしている。 |
模造櫓と濠。濠と土塁 模造櫓 模造櫓と城門。グラウンドとなった本丸本丸 城門へと続く橋。模造櫓 濠と白壁。濠と模造櫓 |
濠と富山郷土博物館。櫓風の富山郷土博物館。千歳御門(現存建築だが、移築されている) |
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別名 |
安住城、浮城 |
所在地 |
富山県富山市本丸1-62 |
種類 |
梯郭式平城 |
築城者 |
佐々成政、前田利次 |
築城年 |
1543年 |
遺構 |
なし |
初訪問 |
2014年7月 |
備考 |
富山城は、1543年に越中東部への進出を図る神保長職により築かれたとされる。 城の防御に神通川の流れを利用した為、水に浮いているように見え、「浮城」の異名をとった。 しかし1560年、長職は上杉謙信により富山城を追われる。 1578年、長職の子とされる神保長住が織田信長の後ろ盾を得て富山城に入城するものの、1582年に長住は上杉方に内通していた家臣に背かれて城内に幽閉され、失脚。替わって、信長の命を受けて富山城主となったのが、佐々成政である。成政は、富山城の大規模な改修を行った。 本能寺の変の後、豊臣秀吉と袂を分かった成政は、1585年、秀吉自ら率いる10万の大軍に城を囲まれ降伏。富山城は破却された。 越中一国が前田家に与えられると、前田利長が大改修を行い、金沢城から移り住み隠居城とした。 1609年に建物の主要部が焼失。前田家は高岡城を新たに築いて移り、富山城には家臣の津田義忠が城代として入った。 加賀藩第三代藩主前田利常は、次男利次に10万石を与えて分家させ、富山藩が成立した。1639年の事。 利次は越中に入り、富山城を仮の城とした。 当初、別の地に新たに城を築くつもりであったが(居城が自領の外にあるという異例の状態であった為)、藩の財政がそれを許さず(加賀百万石の分家であるにも拘わらず、財政的に苦しんだ、というのは皮肉。だったら何故分家した、と思ってしまう)、結局仮の城であった富山城を居城とする事になる。それに伴い、、加賀藩の領地だった富山城周辺を、自領と交換するという措置を取った。 1661年、幕府の許しを得て富山城を本格的に修復。城下町を整え、以後富山前田氏13代の居城として明治維新を迎えた。 |
感想 |
富山城跡は、JR富山駅から500メートル程南下した場所にある。 城があった場所は公園として整備されているが、城跡として保存されてきた訳ではないらしい。石垣は見られるものの、それが遺構か、公園造営の際に新たに城っぽく築いたのかが分からない。 石垣と、城郭風の博物館で、辛うじてこの地に城があった、というのが確認出来る程度。 |
本丸跡内から望む富山郷土博物館。城外から望む富山郷土博物館 本丸跡内から望む富山郷土博物館。千歳御門 本丸跡内から望む富山郷土博物館。城外から望む富山郷土博物館 城外から望む富山郷土博物館 城外から望む富山郷土博物館。佐藤記念美術館 |
濠と二の丸。右郭から望む本丸・二の丸。城外から望む右郭・二の丸 |
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別名 |
安田塁 |
所在地 |
富山市婦中町安田 |
種類 |
連郭式平城 |
築城者 |
前田利家・豊臣秀吉 |
築城年 |
1585年 |
遺構 |
土塁、堀 |
初訪問 |
2014年7月 |
備考 |
安田城は、豊臣秀吉が富山城の佐々成政を征討する為に出陣した富山の役の際に築かれたとされる。 秀吉は、呉羽丘陵に本陣である白鳥城を築き、支城として山麓に安田城を築き、前線基地としたのである。 平地に築かれた安田城は、濠で複数の曲輪を囲む縄張りになっていた。大規模な建築物はなかったと思われるが、後の時代に主流となる平城の前身とも言えた。 成政は、秀吉率いる大軍を前に、降伏。富山は平定された。 これにより、安田城は戦用の城としての役割を終えるが、その後も維持される。 加賀・越中は前田利家の領地となり、加賀百万石の基礎を築く。 江戸時代になった段階で漸く廃城となるが、完全に破却された訳ではなく、江戸時代後期になっても濠や曲輪は残されていた。 明治時代になってから濠が埋め立てられ、田畑となってしまったが、1970年代に発掘調査が行われ、遺構が確認され、古図通りに濠や曲輪が整備された。 |
感想 |
最寄の駅は、JR高山本線の婦中鵜坂駅。そこから北陸自動車道の横にある橋を経て井田川を渡り、川沿いの道に沿って移動すると、城が見えてくる。 直ぐ側に資料館が建てられ、駐車場も完備しているので、自動車で行けるならそうした方が楽かも。 城跡自体は3つの曲輪とそれらを囲む土塁があるだけで、建築物の復元はない。が、田畑になっていた城跡をよくここまで復元出来たな、と感嘆する事も出来る。 見学は無料(資料館も入館は無料)。 中世の城の規模や、土塁の姿の把握には、格好の材料と言える。 |
城外から望む右郭・二の丸。本丸内から望む土塁。二の丸から望む本丸土塁 濠と二の丸土塁 本丸土塁(やけに分厚い)。本丸土塁上から望む二の丸 本丸土塁。城外から望む右郭・二の丸・本丸 城外から望む右郭・二の丸・本丸 |
濠と二の丸。二の丸(奥)と本丸を結ぶ土橋の石垣 |
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別名 |
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所在地 |
富山県高岡市古城1-1 |
種類 |
梯郭式平城 |
築城者 |
前田利長 |
築城年 |
1609年 |
遺構 |
石垣、堀 |
初訪問 |
2014年7月 |
備考 |
高岡城は、初代加賀藩主・前田利長の隠居城として築かれた。 利長は元々富山城を隠居城としていたが、1609年に城の大部分を焼失。高岡城を新たに築き、隠居城としたのである。 しかし、利長は1614年に死去。隠居城として使われたのはごく短期間だった。 その翌年には一国一城令により廃城となる。 ただ、廃城となり、櫓等は破却されたものの、石垣や濠はそのまま残され、軍事拠点としての機能は密かに維持された。街道の付け替えの際には、濠塁が街道から見透かされないよう、町屋を移転して目隠しにしたという。 廃城となった城内には米蔵が建てられたが、1821年の高岡大火の際に全焼。 それでも濠や石垣は維持され、明治維新を迎える。維新後はほぼ全域が公園として整備される。現存建築は一切ないものの、濠、石垣、土塁そして城の規模・縄張りを肌で感じられる遺構となっている。 尚、縄張りはキリシタン大名として名高い高山右近が担当したとされるが、右近が担当した他の城とは異なる部分が多い為、異論を唱える者も多い。 |
感想 |
JR高岡駅から駅前通りに沿って500メートル程北東に移動すると、高岡古城公園に到着する。 戦闘や、政庁目的の為に築かれた城ではないとあって、本丸の規模が大きいのが特徴。 本丸の一部を除いてほぼ土塁の城だが、本丸・二の丸・三の丸・鍛冶丸・明丸といった曲輪がほぼ完全に残っており、実際に歩いて城の規模を確認出来るのは貴重な体験である。 現在、城内は公園として整備され、神社、動物園、市民会館が建ち並び、「城跡」らしくないのは残念。ただ、江戸時代初期に廃された城がここまで残っている事には感謝すべきか。 |
濠と二の丸(右)と本丸(左)を結ぶ土橋の石垣 二の丸跡にある護国神社 城内ではないが、その近くある自称「日本最大大仏の一つ」高岡大仏 濠と二の丸 二の丸跡にある護国神社。二の丸(奥)と本丸を結ぶ土橋の石垣 本丸内の射水神社。本丸広場 本丸広場で展示されている城の石垣 西外濠 本丸と三の丸を結ぶ朝陽橋。濠と本丸 |