津村巧の

城巡り

TAKUMI TSUMURA'S

CASTLE GUIDE

 

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021

 

彦根城

佐和山城

大津城

平城宮

桜山城

亀居城

山口城

 

 

 

 

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彦根城

 

  

現存天守。玄宮園。天秤櫓

 

別名

所在地

503 滋賀県彦根市金亀町1-1

種類

平山城

築城者

井伊直継・直孝

築城年

1603年

遺構

本丸、二の丸、石塁、外堀、内堀、現存天守三層三階(国宝)、櫓多数、外観復元御殿(博物館)

初訪問

1996年(再訪2005年、2014年)

備考

 彦根城主は築城された時から井伊氏だった。35万石は、外様大名としては中程度だが、親藩としてはリッチである。桜田門の変で暗殺された井伊直弼は彦根城主だった。

 彦根城天守も、明治維新後、他の多くの城と同様に取り壊される予定だったが、明治天皇が丁度その時付近を通った。同行していた大隈重信は天皇に保存するよう頼んだ。天皇は同意し、彦根城は取り壊しを免れた。これは喜ばしい事だが、何故他の城もこの様にしなかったと責めたい。

感想

 初めて行った時、彦根城天守は修復中だった為見られなかった。

 彦根城では天守だけでなく、櫓や門が多く残っており、見所が多い。

 入場料金を支払わないと本丸どころか城内に入れない。自分が行った時は500円だった。御殿風の博物館への入場は、別料金。

 側に、関ヶ原の戦いで西軍を実質的に指揮した石田三成の居城だった佐和山城跡がある。三成の処刑後、家康の命で井伊直政が入ったが、山城で不便だったので、新たに城を築いた。それが彦根城である。佐和山城の資材は彦根城に転用された為、遺構はないらしい。

 英語版はこちら

 

追記:

 2005/05に再訪。

 入城料は500円のままだった。

 彦根城の北側には城の庭園玄宮園がある。そこではお茶が飲める。

 

追記:

 2014/05に再訪。

 入城料は600円になっていた。

 

2005年

 

   

 

   

 

2014年

 

  

佐和口多聞櫓。太鼓門櫓。本丸から見た太鼓門櫓

 

  

天守(東側から)

 

  

天守(東側から2枚)。天守(西側から)

 

  

天守3階天井。急勾配の階段。1階の回廊

 

  

太鼓門櫓。西の丸三重櫓

 

  

西の丸三重櫓。玄宮園と天守

 

  

佐和口多聞櫓。佐和山城から望む彦根城。外堀から望む佐和口多聞櫓と天守

 

  

外堀から望む佐和口多聞櫓と天守。西の丸三重櫓。南側から望む天守

 

  

佐和口多聞櫓。馬屋(いずれも現存)

 

  

復元御殿(彦根城博物館)。天秤櫓

 

  

天秤櫓

 

  

天秤櫓内。太鼓門櫓

 

  

天守。本丸石垣(北面。奥に琵琶湖)

 

  

天守。天守最上階

 

  

天守

 

  

太鼓門櫓(本丸から。内側が開放型になっている)

 

  

太鼓門櫓と天守。時報鐘(太鼓門櫓の側)

 

  

太鼓門櫓。天守東側から

 

  

西の丸三重櫓(外と中)

 

  

西の丸三重櫓の狭間。西の丸三重櫓

 

  

西の丸三重櫓。内掘北側

 

  

玄宮園

 

  

玄宮園

 

  

佐和口多聞櫓。佐和山城から望む彦根城

 

  

外堀から望む佐和口多聞櫓と天守

 

  

南側石垣

 

  

南側石垣。天守、太鼓門櫓、天稟櫓

 

 

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佐和山城

 

   

佐和山城址。彦根城から望む佐和山城(手前の建物は御殿風の彦根城博物館)

 

別名

佐保城

所在地

滋賀県彦根市佐和山町

種類

山城

築城者

佐保時綱

築城年

 

遺構

 

初訪問

1997年(2014年再訪)

備考

 佐和山に最初に城を築いたのは鎌倉時代初期の武将佐保時綱だと伝えられているが、この城が歴史の表舞台に立ったのは1590年の事。

 秀吉の命によって石田三成が入城したのである。

 三成は荒廃していた城を築き直した。関ヶ原の件で見られるように、三成は武将としては失格だったかも知れないが、行政の面では優れていて、城下町は大いに栄えたようである。

 しかし、三成は関ヶ原で西軍の将となり、敗北を喫してしまった。三成は処刑され、代わりに家康の重臣井伊直政が入城した。直政は新たに彦根城を築城。佐和山城の建築物は新城に転用された(ただし、最近の研究では、石材の質からして、佐和山城の石垣は彦根城に転用されなかった、という説も出ている)。

 直政は、三成の遺構を徹底的に潰す事を掲げ、佐和山城は跡形もなく破壊された。

感想

 佐和山城は、JR彦根駅から程近い場所にある小高い山に築かれた。

 登山口は数箇所あるらしいが、最も利用し易いのが龍潭寺(佐和山城址のある山自体、龍潭寺が所有しており、無料で開放している)からのルート。

 標高200メートル程度なので、それなりの体力が備わっていれば登り切れるが、舗装されていない道を歩くので、靴や服装はそれなりのものが必要。

 自分が2014年に登った際は、発掘調査中だった。

 石垣が築かれていたというが、その痕跡は全く残っておらず、土塁だけの城であったかのように錯覚してしまう。

 

  

本丸跡にある石碑。本丸跡

 

  

彦根城から望む佐和山城。本丸跡

 

  

本丸跡。西の丸跡(発掘調査中)

 

  

西の丸延塩硝跡。登山口となっている龍潭寺の門

 

 

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大津城

 

大津城跡の碑

 

別名

雲浜城

所在地

滋賀県大津市浜大津

種類

平城

築城者

浅野長政

築城年

1586年

遺構

 

初訪問

2014年

備考

 大津城は、1584年に廃城となった坂本城の代わりとなるべく、坂本城4代目藩主の浅野長政によって築かれた城。4層5階の天守構造を持った、かなり豪壮な水城だったという。

 その後城主は増田右衛門、新庄駿河守と代わり、1595年に京極高次が近江八幡山城から移り、6万石の城主となる。

 1600年、大津城は関ヶ原の前哨戦として毛利元康を大将とする西軍の毛利軍1万5000によって攻撃される。

 高次は8日間にわたって抗戦するが、城内に大砲を打ち込まれ、開城を余儀なくされる。関ヶ原の戦いの前日の出来事だった。

 高次は、降伏した事を恥じて高野山に入る。が、毛利軍を大津城に引き付け、関ヶ原の戦いへの参加を阻止した、という功績が認められ、家康により若狭国小浜8万5000石を領する(手柄を立てた他の東軍諸大名からすれば、報酬は少ない。あともう一日耐えていれば、「勝者」として更に加増されていた、という意見も)。

 大津城は、大砲で破壊された事から廃城となり、近くに膳所城が新たに築かれる。

 本丸跡には代官所が置かれ、明治維新まで続いた。

感想

 最寄の駅は、京阪電鉄の浜大津駅。

 というか、浜大津駅自体が二の丸跡とされ、大津城跡の碑があるのが本丸があった場所とされる。

 しかし、一帯は完全に埋め立てられ、市街地と化し、城の面影は一切残っていない。

 京都からだと、京阪電鉄への乗換えにやけに苦労するので、JR大津駅から徒歩で浜大津へ向った方が結局楽かも。

 

  

大津城跡の碑。碑の周辺(本丸辺り)

 

  

浜大津駅。浜大津駅周辺(二の丸辺り)

 

 

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平城宮

 

   

大極殿(復元)

 

別名

 

所在地

奈良県奈良市佐紀町

種類

 

築城者

元明天皇

築城年

710年

遺構

 

初訪問

1998年(2014年再訪)

備考

 元明天皇が平城京に遷都したのは710年の事。それから784年に桓武天皇が長岡京に遷都するまでの時期を奈良時代と呼ぶ。740年から745年の間、都は一時的に恭仁京や紫香楽京や難波京に移った(当時は天皇が変わる度に遷都が行われたらしい)。この期間を境に奈良時代は前半と後半に分けられる。

 平城京は東西4.3キロ、南北4.8キロで、右京・左京の東に東西1.6キロ、南北2.1キロのの外京があり、総面積2500haの、当時としては非常に規模の大きい都だった。

 平城宮は、平城京の中央北寄りにあった。東西1.3キロ、南北1キロ。総面積は120ha。平城宮には政治や儀式の場である大極殿や朝堂院、天皇が日常生活をした内裏、そしてその他の役所があった。現在の東京で言えば国会議事堂、皇居、そして霞ヶ関の官庁を合わせた施設であった。

 平城京は人口10万程度の都市として栄えたが、都が移されると廃れてしまったようである。現在、奈良は大阪の衛星都市的な地位に甘んじていて、1300年前の繁栄はあまり感じられない。

感想

 JR奈良駅の西側に位置する。

 平城宮跡全体が史跡に指定され、発掘調査や整備が行われている。

 近鉄奈良線が史跡を横断しているので、「近鉄が史跡に線路を敷いた」と思われがちだが、近鉄が線路を敷いた時代は平城宮の規模が正確に分かっておらず、寧ろ史跡を避けるようにして線路を敷いたつもりだった。が、後の調査の結果史跡の範囲が広がってしまい、まるで史跡を線路が横切っている形になってしまったという。

 現在、史跡跡には大極殿や朱雀門等が復元されている。他にも無数の建物があったと思われるが、現在は点々とあるだけ。それでも、平城宮の規模は充分把握出来るようになっている。

 

  

 

 平城宮からかなり離れているが、東大寺も訪れた。

 平城宮跡の朱雀門は、東大寺の南大門を建造当所の姿に復元したと思われる。

 

  

 

  

 

 

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桜山城

 

  

三原城天守台から望む桜山城。舟入櫓入り口から望む桜山城。桜山城登山道

 

別名

甲の丸

所在地

広島県三原市桜山町

種類

山城

築城者

山名氏

築城年

 

遺構

 

初訪問

2011年

備考

 桜山城が築かれたのは鎌倉期。

 清和源氏の名門・新田氏の一族とされる山名氏の城だったらしい。山名氏は15世紀中頃には安芸・備前・備後・美作等の守護職を務め一大勢力を築いたが、戦国期には急速に衰退した。

 ただ、現在の遺構の状態は石垣が多用され土塁に囲まれた近世城郭の山城である。小早川隆景による三原城築城の際、詰めの城として整備されから。甲の丸と呼ばれていたらしい。

感想

 桜山城は、一時は登山道等が整備されたらしく、駅の北口にも案内板が立てられ、入り口までは行き易い。

 ただ、整備が一旦完了した後は全くメンテナンスがされていないらしく、登山道は木々にさえぎられ、さながらジャングルの中を進んでいるかのよう。

 余程の冒険家でもない限り、身の危険を感じるだろう。

 そんな事もあり、2011年の初訪問では登山口入り口で登山を断念した。

 冬季だと木々が冬枯れするので上り易い、と聞くが、木々の状況を見ると、そうは思えない。

 

  

三原駅北口の側にある桜山登山案内図(背景は三原城天守台石垣)。登山道入り口への標識

 

  

登山道入り口(イノシシ除けの扉を開けて入る)。登山道

 

  

三原城天守台から望む桜山城。三原港(城とは無関係)

 

三原港と空

 

 

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亀居

 

  

二の丸入り口。本丸石垣。二の丸石垣

 

別名

小方城?

所在地

広島県大竹市

種類

山城

築城者

福嶋正則

築城年

1603年

遺構

本丸、二の丸、石塁、天守台

初訪問

1995年

備考

 亀居城は関ヶ原の戦いの後、この地に移った福島正則によって築かれた。広島を本城とし、小方、三次、東城、三原に支城を築いたのである。

 小方の城は1603年に築城を開始し、5年後に完成。しかし、1611年、完成からたった3年後に幕府の圧力によって取り壊されることになる。これではいくら石塁が見事でも歴史に残らないのも納得できる。

 支城でも規模は小さくなく、周囲は2キロほどあり、面積は992a、10万平方メートルほどあった。本丸、二の丸、三の丸……と11の曲輪から成り、掘も巡らされていた。

 この城が亀居城と呼ばれるのは、城地が亀に見えたからだ。現在も山の形がそう見えなくもない。地図から見ると城は細長いが、中を歩いていると実際より広く感じる。

感想

 亀居城は、玖波駅と大竹駅の間にある。いずれからも2キロ以上離れている。途中までバスで行けるようになっているが、本数が少なく、利用するのは無理。駐車場があるので、車を持っていれば車で行くのが正解だろう。

 公園としての整備は進んでいて、山の上にあるにしては立派な石垣を誇る。

 本丸へは無料で入れる。

 

追記

 2013/08に再訪。

 国道2号線沿いにイオン大竹が出来、その向かいに亀居城跡入口が位置する状態になった。

 最寄のJR玖波駅からイオン大竹までは無料バスが走っているので、それを利用すれば比較的楽に城まで行けるようになった。

 

   

国道2号線にある石碑。この道を真っ直ぐ進み、線路を渡す陸橋を渡り、坂道を上がると亀居城に到着

本丸

 

  

松の丸への入り口

 

  

二の丸。本丸石垣

 

  

本丸石垣。本丸

 

  

本丸(2005年と比較して手入れが成されていない感じ)。二の丸への入り口

 

  

二の丸石垣。詰の丸から望む二の丸石垣

 

亀居城図

 

2005年

本丸から見た天守台

 

 

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山口

 

藩庁門。背景にあるのが高嶺城があった高嶺山

 

  

2012/08の藩庁門。城内にある旧県庁庁舎

 

別名

山口屋形

所在地

山口県山口市滝町

種類

平城

築城者

毛利敬親

築城年

1864

遺構

藩庁門、水濠

初訪問

2003年(再訪問2012/08)

備考

 山口城は比較的新しい城、というか、幕末に毛利氏が幕府の許可を得る事無く築城した城である。これまでの居城だった萩城は海に面していた事から外国船からの砲撃を受け易い、という事で急遽築城が決まったのである。

 高嶺の麓に築いたのは、萩城が平城と山城の二城から成り立っているように、山口城もいざという時は高嶺で立てこもる事が出来る、……という思惑があったかららしい。

 維新後、山口城は県庁として使われる事になったが、1911年の県庁改築の際に元の建物は全て取り壊された。藩庁門だけが現在の場所に移築されて残された。

感想

 山口城は、何も残っていないと考えてもいい。現在の県庁周辺を歩き回っても、縄張りがどんなものであったか見当も付かない。

 県庁は山口駅から1キロほど離れている。

 山口市そのものは、本当に県庁所在地なのか? と疑いたくなるほど閑静である。

 県庁の側に山がそびえているが、それが高嶺城があった高嶺山である。

 

  

藩庁門。城内にある旧県庁庁舎、旧県議会議事堂(高嶺城があった高嶺山がそびえる

 

  

旧県庁庁舎と旧県議会議事堂。水濠

 

 

  

藩庁門

 

  

藩庁門の裏側。城内にある旧県庁庁舎

 

  

旧県議会議事堂。旧県庁庁舎と旧県議会議事堂

 

  

水濠

 

 

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別名

 

所在地

 

種類

 

築城者

 

築城年

 

遺構

 

初訪問

 

備考

 

感想

 

 

 

 

 

 

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別名

 

所在地

 

種類

 

築城者

 

築城年

 

遺構

 

初訪問

 

備考

 

感想

 

 

 

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別名

 

所在地

 

種類

 

築城者

 

築城年

 

遺構

 

初訪問

 

備考

 

感想

 

 

 

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