津村巧の

城巡り

TAKUMI TSUMURA'S

CASTLE GUIDE

 

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008

 

福岡城

久留米城

小倉城

佐賀城

唐津城

島原城

国重城

大洲城

 

 

 

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福岡城

 

  

南丸多門櫓。天守台。潮見櫓

 

別名

舞鶴城

所在地

福岡県福岡市中央区

種類

平山城

築城者

黒田長政

築城年

1601年

遺構

本丸、二の丸、石塁、天守台、濠、現存櫓

初訪問

1996年(2013年9月再訪)

備考

 関ヶ原の戦いの後、黒田如水・長政親子は、筑前に52万石の大大名として入った。1600年の事である。名島城に入ったが、大大名の居城としては狭過ぎる。新たに城を築く事になった。翌年の6月に施工が開始され、7年後に完成した。この城が福岡城である。

 城郭の総面積は20万平方メートルにも及び、外濠は4700メートルにも及んだ。櫓は47もあったという。加藤清正も感嘆の声を上げる程立派な城だった。しかし、天守台を築きながらも、天守は築かなかった。如水の意向でそうなったという(最近の研究では、これを覆す説も出ている)。

 家康が最も恐れていた人物が如水だった(秀吉姫路城を縄張りした人物でもある)。家康の死後、徳川から天下を奪うとなればそれは如水だろうとまで言われていた。政治力、軍事力、知力、人望など、天下人の条件が全て揃っていたからだ。秀吉が家康を恐れたように、家康は如水を恐れた。隙を見せたら潰そうと幕府は企んだ。

 しかし、如水は隙を見せなかった。幕府の目が彼に向いた途端、家督を子の長政に譲って隠居してしまった。立派な城を建てながらも、天守は建てなかった。

 危険を前もって察して避ける。それでも危機に陥ったら自分のひ弱さを躊躇いなく披露する。この手法は加賀の前田家も用いた。熊本の加藤家や、広島の福島家等の大大名が潰される中、黒田家は、お家騒動で数回にわたって揺られながらも、転封される事無く明治まで続いた。

 何故如水が天下を取ろうと動かなかったのかは疑問である。家康が恐れた程の人物でなかったからかも知れないし、天下を取るには歳を取り過ぎていたからかも知れない。

 結局、徳川幕府は何にも恐れる事無く、300年に及ぶ支配権を握ったのである。

 加藤清正が築いた熊本城は、天守を持つ立派な城だった。福島政則が入城した広島城には、毛利家が築いた立派な天守群がそびえていた。双方とも不運な目に遭っている。

 福岡城と、前田家の金沢城に天守はなかった。双方とも明治まで続いた。

 立派な城で短く生きるか、質素な城で長く生きるか。武士としてはどちらが光栄だったのだろう。

感想

 城があった場所には球場が建てられたり(2014年に訪れた時点では球場は解体され、鴻臚館跡として調査・整備中だった)、運動場になっていたりと、城として整備されているとは言い難い。石垣が残っているのは本丸のみである。完成当時は櫓が数十あったというが、その痕跡は現在の城跡からは見受けられない。

 城は、三の丸は比較的平らで平城っぽいが、二の丸に至ると途端に高くなり、平山城となっている感じである。

 公園なので、入場は無料。

 現存建築は、南丸の多門櫓(多聞櫓の存在は、2014年に南側から入った時点で漸く知った)、大手門、潮見櫓である。

 多聞櫓は、築城当時の位置に現存する唯一の櫓とされる。54メートルの平櫓の両端に2重隅櫓を配置しており、贅沢な作りとなっている。

 多聞櫓以外の現存建築である大手門と潮見櫓は、公園の外にある。潮見櫓は別の場所にあったものを移築した、となっていたが、それも疑わしく、福岡城のどこの櫓なのか正確に分かっていない状態にある。

 福岡市内には、他に名島城がある。

 

2004年

 

   

天守台。天守が築かれた事はないとされる。潮見櫓(伝)

 

2013

 

  

南丸多門櫓(南端)。南丸石垣。南丸多門櫓(南丸内から)

 

  

天守台(南側)

 

  

天守台内から

 

  

天守台内から。天守台北側。天守台入り口

 

  

本丸内石垣

 

  

本丸北東の御祈念櫓。多聞櫓北端

 

  

多聞櫓南端。多聞櫓北端。大手門、潮見櫓(伝)

 

  

大手門、潮見櫓(伝)

 

  

南丸多門櫓南端。南丸石垣

 

  

南丸石垣。本丸石垣

 

  

南丸多門櫓(南丸から)。天守台(南側)

 

  

天守台の入り口。天守台東側石垣

 

  

天守台入り口。天守台内部

 

  

天守台内部。天守台入り口

 

  

天守台入り口。天守台石垣

 

  

本丸東部から望む天守台石垣

 

  

南丸多門櫓

 

  

大手門、潮見櫓

 

  

大手門、潮見櫓

 

 

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久留米

 

  

本丸南側石垣。篠山神社。本丸南側石垣

 

別名

久留目城、来目城、篠原城、篠山城

所在地

福岡県久留米市篠山町

種類

平山城

築城者

毛利秀包

築城年

 

遺構

本丸、石塁、濠

初訪問

1996年(2004年、2013年再訪)

備考

 現在の久留米城は、毛利秀包が築いた。

 秀包は熱心なクリスチャンで、大友宗麟の娘を娶った。城下に教会を建て、最盛期には数千のキリスト教信者が集まった。

 しかし、秀包の支配は長く続かなかった。関ヶ原で西軍に属してしまったのだ。それ以後、黒田如水の弟図書や、加藤清正の家臣が入城した後、有馬豊氏の居城となった。

 現在は本丸しか残っていないが、かっては現在の篠山町全域に二の丸と三の丸を拡げていた大規模な城だった。

感想

 久留米市といえば大手タイヤメーカー・ブリジストンの工場があることで有名。自分が行った時、大きな町でない割には活気に溢れているな、と感じた。

 ただ、久留米市は久留米城を観光資源として利用するつもりはないらしく、道しるべなどは全くない。城があることを知らない市民も多いのではないか。

 本丸の石垣は立派で、高さ20メートルはある。本丸の敷地は現在篠山神社となっており、入場は無料である。

 

1996年

 

本丸石垣

 

2004年

 

本丸石垣

 

2013

 

  

本丸南側石垣。篠山神社

 

  

本丸東側石垣。本丸南側石垣。本丸南側石垣

 

  

本丸南側石垣

 

  

篠山神社

 

  

本丸東側石垣

 

  

本丸南側石垣と水濠。本丸南側石垣と空堀

 

 

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小倉

 

  

 

別名

勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉の城

所在地

803 福岡県北九州市小倉区城内2-1

種類

平城

築城者

細川忠興

築城年

1602

遺構

本丸、石塁、復興天守鉄筋コンクリート4層5階

初訪問

19964月(20044月、20139月再訪)

備考

 小倉城は、細川忠興が築いた城である。関ヶ原の功で40万石の大名になった忠興は、中津城に入ったが、狭過ぎると感じ、小倉に城を築き、居城とした。

 1620年、忠興は隠居し、家督を子の忠利に譲った。

 3代将軍家光による配置替えで、細川家は熊本へ移転した。小笠原氏15万石が小倉に入り、明治まで続いた。

 天守は失火により1837年に焼失し、再建されなかった。

 天守焼失後にも城内には数々の建造物は残っていたが、1866年の豊長戦争で小笠原氏は自ら城に火を放った為、全焼してしまった。

感想

 最寄のJR駅は西小倉。西小倉駅から300メートルほど南下すればよい。

 小倉城天守の特徴は、本来なら五層になる天守の四層と五層の間の屋根を省き、四層天守として完成させたことである。また、五階部分が四階部分から張り出している。唐造りという。岩国城もこれと同じような造りである。

 現在の天守には破風があるが、1837年に焼失した天守には破風がなかった。島原城のような、天守建築の最終発展型だったのである。島原城では、一層目の海鼠塗りが単調なデザインのアクセントとなっているが、小倉城では、唐造りがアクセントだった訳である。再建天守では破風の為、唐造りのインパクトが減少しているのが残念。

 城は本丸まで無料で上がれる。復興天守に入るには入場料が必要。自分が行った時は350円だった。

 

 2013年9月に再訪。

 周辺に高層ビルが建ち並び、少し離れて城を撮ろうとすると場違いなビルが写り込んでしまう。

 直ぐ隣にそびえる商業施設(リバーウォーク北九州)も、城を見下ろす展望台として利用出来ればまだマシなのだが、そうした機能は持ち合わせておらず、ひたすら邪魔なだけ。

 

2004年

 

復興天守

 

2013

 

  

天守(東側)。水濠。天守(北東から)

 

 

  

天守(南東から)。リバーウォーク北九州から辛うじて撮れた天守

 

  

天守(東側、北側)

 

  

水濠。天守(北東から)

 

  

天守(東側。背景にビル)。天守(北側)

 

  

東側の入り口。天守(南側。背景にマンションとリバーウォーク北九州

 

 

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佐賀城

 

  

鯱の門。天守台

 

別名

栄城、亀甲城、沈み城

所在地

佐賀県佐賀市城内

種類

平城

築城者

鍋島直茂

築城年

1601年

遺構

本丸の一部、石塁、天守台、門

初訪問

1996年(2013年11月再訪)

備考

 佐賀城は、戦国時代からあったが、現在の城は1601年に鍋島直茂が築城したものである。直茂は、旧佐賀城主竜造寺隆信の重臣であったが、隆信の死後、国を治められる人物は他にいないということで、大名になった。

 直茂は、竜造寺時代、旧佐賀城を攻める5万の大友軍を、わずか数百の兵で守り抜くほど戦に長けていた。隆信の死後、権力を巡る争いでは無闇に動かず、自然に権力が自分の手に入るのを待つという高度な政治的判断もできた人物だった。

 直茂のお陰で、鍋島家は秀吉の死や、関ヶ原などの苦難を乗り越え、転封されたり、取り潰されたりすることなく明治まで続いた。

感想

 佐賀駅から佐賀城まで行くには、南へ走る道を真っ直ぐ下ればよい。そうすれば外堀にたどり着く。城内に入って県庁を横切り、更に南下すると佐賀城跡に到着する。

 こうして書くと行くのは簡単そうだが、駅から県庁までの距離は1500メートルである。佐賀城跡は、県庁から更に500メートルほど離れている。

 佐賀城は、主要駅から2キロも離れているのである。バスが通っているが、初めての者だと利用し難い。

 地図を見ると三の丸を囲む濠がくっきりと残っていて、期待が膨らむが、いざ三の丸に入ると県庁や図書館があるだけ。城内に踏み込んだ、という実感は味わえない。

 また、本丸の敷地は学校用地となっている。

 

 2013年に再訪。

 本丸は、学校が移転され、本丸御殿(本丸歴史館)が建てられていた。本丸歴史館の大部分は、見た目に反して近代建築だが、奥の御座間という部分だけは、現存建築。元は御殿の一部だったが、別の場所に移築され、それを歴史館の建設の際に再移築したらしい。

 本丸歴史館は、入館料が無料だが、その代わり寄付金を募っている。

 建築物の復元は少ないが、石垣や土塁の整備は進んでいる。

 本丸石垣の一部は、外からだと石垣に見えるが、中からは土塁、という特異な仕様になっている。

 バスも、1996年と比較して利用し易くなっていた。

 

1996年

 

 

2013年

 

  

天守台。天守台から望む鯱の門。本丸歴史館

 

  

御座間。犬走りから望む本丸石垣。櫓石垣(修復)、本丸歴史館、土塁

 

  

天守台。鯱の門

 

  

鯱の門。本丸側から見た鯱の門

 

  

本丸西側(左に本丸歴史館、右に土塁・石垣)。天守台と本丸歴史館

 

  

天守台。犬走りと本丸石垣

 

  

天守台石垣。天守台から見下ろす鯱の門

 

  

本丸歴史館。歴史館内部(復元)

 

  

歴史館内部(復元)。御座間

 

  

本丸歴史館

 

  

御座間。石垣を潜る水路

 

  

本丸と本丸歴史館。南西隅櫓石垣(修復がやけに近代的)

 

  

本丸と本丸歴史館。犬走りから望む本丸石垣

 

  

水濠と本丸南側土塁

 

 

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唐津

 

 

別名

舞鶴城

所在地

840 佐賀県唐津市東城内8-1

種類

平山城

築城者

寺沢広高

築城年

1602年(1608年完成)

遺構

本丸、石塁、復興天守56階、復元櫓

初訪問

1996年(2013年11月)

備考

 唐津城は、寺沢広高が1602年に築いた城である。

 広高は、秀吉に可愛がられた大名の一人だったが、関ヶ原では東軍につき、唐津に留まることができた。しかし、キリシタン対策を誤り、島原の乱の責任を取らされてしまう。その上、子は発狂・自殺し、唐津の寺沢氏は2代で終わることになった。

 その後、大久保氏3代、松平氏3代、土井氏4代、水野氏4代、小笠原氏6代など、親藩の領地として明治を迎えた。

 唐津城の別名は舞鶴城であるが、同じ別名を持つ城は全国に数多くある。最も近いのが福岡城である。

感想

 唐津城本丸は、唐津駅から1キロ以上離れている。ただ、城の規模は大きかったらしく、市街地のど真ん中に復元された櫓があった。

 唐津城本丸は公園となっており、無料で入れる。復興天守は有料。

 本丸周辺も当然ながら城地だった筈だが、学校などが建ち、面影はない。

 唐津城本丸付近には高層ビルが少ない為、かなり遠くからでも望む事が出来る。

 

 2013年に訪れた時、天守の石垣が修復中だった。

 石垣が取っ払われ、模擬天守が仮設の基礎の上から浮いている様な状態だった。

 

1996年

 

模造天守

 

市内に復元された三の丸辰巳櫓。ずっと奥に天守がある

 

2013年

 

  

三の丸辰巳櫓

 

  

模擬天守(石垣を修復中)。本丸櫓門。本丸石垣

 

  

本丸櫓門。模擬天守

 

  

本丸石垣。佐賀中学校の敷地となっている二の丸曲輪の石垣

 

  

唐津城全貌。模擬天守

 

 

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島原

 

復元天守と隅櫓

 

別名

森岳城、高光城

所在地

855 長崎県島原市城内1

種類

平城

築城者

松倉重政

築城年

1625年

遺構

本丸、石塁、復元鉄筋コンクリート5層6階、復元櫓

初訪問

1996

備考

 島原城は、松倉重政が、7年かけて築いた城である。日之江城を居城としていたが、どうも狭い。

 そんな時、一国一城令が執行されると耳にした。施行後は新城を築くのが不可能になると感じた重政は、直ちに島原城築城を開始した。

 重政は4万石という小大名にも拘わらず、層塔型五層天守に、三層・二層櫓を50近く並べ、名古屋城に匹敵するほどの本丸を持つ豪華な城を完成させた。この為、領民は重税に苦しんだが、重政は気に留めなかった。結局、重政は暗殺されてしまう。

 子の勝定は、父の悪いところを全て受け継いだような暴君で、領民は重税に苦しまれ続けた。その上、キリシタン弾圧も積極的に行った。島原の乱が勃発したのも不思議ではない。

 島原の乱の責任を問われ、勝定は切腹を命じられた。

 その後、高力氏、松平氏、戸田氏、再び松平氏と、城主は目まぐるしく代わった。原城で死んだ反乱軍の呪いの為か、城主は早死が多く、跡継ぎがなくて断絶、もしくは養子が多かったという。

感想

 島原城は、島原鉄道島原駅から出た時点で望める。

 島原に到着すれば問題なく行ける城。ただ、島原鉄道は使い勝手が悪い。停車駅が多い上に各駅停車だったので、とにかく時間がかかった。

 復元天守は、元の天守をほぼ忠実に復元している。破風などがないクリーンな、悪く言えば素っ気ない外形だ。他に櫓なども再建されている。

 本丸まで無料で入れる。天守は有料。300円だった。

 

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国重城

 

  

国重城近くの河内神社

 

別名

 

所在地

広島県広島市安佐南区沼田町伴字迫の谷

種類

丘城

築城者

武田信恒

築城年

 

遺構

なし

初訪問

2011年6月

備考

 室町時代に安芸武田氏(銀山城)の一族である武田信恒によって築かれたとされる。信恒の子の信正から国重を名乗る様になる。安芸武田氏は現在の広島市がある場所を治める有力な守護だったが、中国地方において大内・毛利氏が台頭すると徐々に衰退。そんな中、信正は元は武田一族であったにも拘わらず銀山城主武田元繁に叛いて大内・毛利側に付く。武田氏と大内・毛利氏との抗争はその後激化し、最終的に安芸武田氏は滅ぼされる。国重氏は毛利氏の下で生き延び、毛利氏が進めた数々の戦で活躍し、国重城を守る。しかし、毛利氏が関が原の戦いの後に防長二カ国に減封になって広島から萩に移ると、国重氏もこれに従って国重城を去り、廃城となった。

 

 国重城跡は1982年に宅地造成の際に大規模な発掘調査が行われ(「国重城跡発掘調査報告書」でまとめられている)、その全貌が明らかにされた。城は、伴東小学校の北側、交通量の多い車道(県道71号線のバイパス)を渡ったところにある丘城(標高70メートル)だったとされる。山頂が平らで、比較的広い敷地が確保されていた事から、戦用の城というより、館としての役割が大きかったとされる。

 南北に長い楕円形の縄張りで、本丸相当の広い曲輪(報告書では「第1郭」と称されている)の南に帯曲輪上の「第2郭」「第3郭」が配置され、更にその外側に「第4郭」「第5郭」があった。第4郭の西側には竪堀が4条設けられていた。

「第1郭」南部には弥生時代の竪穴式住居跡も発見され、この地にはかなり前から人間が生活していたのが判明した。

感想

 上述の発掘調査は、宅地造成の際に開発業者から教育委員会が依頼を受けて実施されたもの。調査終了後は宅地造成がそのまま続行され、現在は一住宅地に過ぎない。高台となっている部分を歩いてみたが、ただ住宅が並ぶだけで、城があったという面影は一切ない。

「国重」という地名すら残されていないが、何故か近くに「キャッスルハイム國重」という集合住宅があり、それが唯一この辺りに城があった事を示している。

 300メートル程南の緑地に河内神社があるが、城とは無関係の様である。

 

  

高台になっている部分が、城があった部分と思われる。

 

  

キャッスルハイム國重。河内神社

 

  

河内神社

 

河内神社

 

 

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大洲

 

  

 

別名

比志城、地蔵ヶ獄城、大津城、亀ヶ岡城

所在地

愛媛県大洲市三の丸

種類

平山城

築城者

宇都宮豊房

築城年

1617

遺構

本丸、石塁、現存櫓

初訪問

1997

備考

 大洲城周辺は、元は大津と呼ばれていた。大洲の地蔵ヶ獄に宇都宮豊房が1330年に城を築いたことで大洲城の歴史は始まる(だから別名大津城、地蔵ヶ獄城とも呼ばれる)。

 宇都宮氏は8代にわたって地蔵ヶ獄城を本拠に宇和の西園寺氏、道後の河野氏、土佐の一条、長宗我部氏、そして中国地方の毛利氏と戦うが、1580年、長宗我部元親によって滅ぼされた。

 宇都宮氏の後、大野直之が入城するが、この直後、豊臣秀吉に攻められる。肱川に守られた城はなかなか陥落せず、3万の大軍による攻勢に対して一ヶ月も持ちこたえた。結局落城してしまうが、城地は重視されるようになった。

 今の大洲城は、籐堂高虎が修築したものである。1617年に加藤家が入り、幕末まで続いた。

 幕末まで4層天守が残っていたが、明治になって取り壊されてしまった。

 大洲城には人柱伝説がある。

 肱川の洪水で工事が進まず、人柱が立てられることになった。選ばれたのが「おひじ」という女性である。埋められる前に、城主が何か言い残すことはないかと問うと、その女性は城と川に自分の名を付けるよう、頼んだという。

 こうして、大洲城は別名比志(ヒジ)城、そして川の名は肱川または比志川と呼ばれるようになった。

 この伝説が史実なのかは分からないが、何気なく渡ってしまった川にも、色々伝説があるんだなと感じさせた。

 2004年に、大洲市制施行50周年を記念して、戦後初の当時の工法・木造で天守が復元された。

 現存建築には台所櫓と高欄櫓(復元天守と連結)、苧綿櫓(肱川堤防上にある)、三の丸南隅櫓(本丸から離れた「お城公園」にある)、下台所がある。

感想

 大洲駅から真っ直ぐ大通り(国道56号)まで行き、そこを右に曲がる。国道に沿って進むと肱川がある。肱川を渡り、右に曲がれば大洲城である。

 こう記すと楽に行けるようだが、距離がかなりあるので、それなりに大変。

 城内には櫓がいくつか残っているが、どれも入れない。

 城内を歩き回るだけなら無料である。

 この城は城内から見るより、肱川にかかった肱川橋から望むのが最適かも。

 

高欄櫓

 

201112

  

大洲城全景。天守群。苧綿櫓

 

  

本丸から望む苧綿櫓。本丸石垣

 

  

高欄櫓。下台所と天守。天守群

 

  

天守群

 

  

天守群

 

  

天守群(目の前に公衆便所)

 

  

三の丸南櫓

 

  

三の丸南櫓。2階。天井

 

  

大洲城全景

 

  

下台所(現存)。番所(復元)

 

  

番所と復元天守。復元天守と高欄櫓(現存)

 

  

本丸石垣

 

  

高欄櫓(現存)。復元天守と台所櫓

 

  

天守群(復元天守と現存櫓)。三の丸南櫓から見たお城公園

 

  

三の丸南櫓2階。階段

 

  

三の丸南櫓隠し狭間

 

  

三の丸南櫓1階。お城公園

 

  

三の丸南櫓。三の丸南櫓と天守群

 

 

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